第1次伊藤博文内閣

高校日本史的重要度
★★★

第1次伊藤博文内閣

1885年〜1888年

【概説】
1885年(明治18年)12月、明治維新以来の太政官制を廃止して新たに創設された内閣制度のもとで成立した、日本最初の内閣。初代内閣総理大臣には伊藤博文が就任した。1890年の国会開設を見据え、大日本帝国憲法の制定準備や近代的な官僚機構の整備など、立憲国家への移行に向けた国家体制の基盤作りにおいて極めて重要な役割を果たした。

太政官制の限界と内閣制度の創設

明治新政府は発足以来、古代の律令制に倣った太政官制を最高行政機関として採用し、幾度かの改組を経ながら富国強兵殖産興業などの近代化政策を推し進めてきた。しかし、1881年(明治14年)に「国会開設の勅諭」が出され、1890年の議会開設と憲法制定が公約されると、これに対応できる近代的な行政機構の構築が急務となった。

ヨーロッパ(主にプロイセン)での憲法調査から帰国した伊藤博文は、立憲君主制にふさわしい統治機構への転換を主導した。太政官制では天皇が直接政務を裁決する建前であったが、議会政治が始まれば天皇が政治的対立に巻き込まれる危険性があった。そこで1885年(明治18年)12月22日、太政官制を廃止して新たに内閣制度を創設し、各省の長官である国務大臣が連帯して天皇を補弼(ほひつ・補佐すること)する体制を整えたのである。そして、初代内閣総理大臣の座には、維新の元勲の中では比較的若手であった44歳の伊藤が就任した。

薩長藩閥による「初代内閣」の陣容

第1次伊藤内閣の閣僚陣容は、当時の政治権力の力関係を如実に表していた。総理大臣の伊藤を含む全10人の閣僚のうち、外務大臣の井上馨、内務大臣の山県有朋、大蔵大臣の松方正義、陸軍大臣の大山巌、海軍大臣の西郷従道など、実に長州藩出身者が4名、薩摩藩出身者が4名を占めたのである(他は土佐藩出身の谷干城と、旧幕臣の榎本武揚)。

この極端な構成は、自由民権運動の活動家などから「薩長内閣」と批判を浴びた。しかし一方で、この強力な藩閥政治(はんばつせいじ)体制があったからこそ、国会開設前の過渡期において、権力闘争による政府の分裂を防ぎ、上意下達で迅速に国家制度を構築することができたという側面も否めない。

憲法制定準備と宮中・府中の別

この内閣の最大の使命は、来たるべき立憲体制に向けた法整備であった。伊藤は自ら憲法草案の起草を主導し、井上毅(いのうえこわし)、伊東巳代治(いとうみよじ)、金子堅太郎(かねこけんたろう)らとともに、外部の干渉を避けるため夏島(現在の神奈川県横須賀市)の別荘などで極秘裏に作業を進めた。

また、伊藤は総理大臣と同時に初代宮内大臣を兼任した。これは、政治の場である「府中(内閣)」と、天皇の生活空間である「宮中(宮内省)」を明確に分離する「宮中・府中の別」を確立するためであった。宮廷の保守派が政治に介入することを防ぎ、近代的な立憲君主制の枠組みを守るための重要な防波堤となった。

近代国家の骨格形成:帝国大学令と官僚制度

政治制度だけでなく、国家を支える人材育成と官僚機構の整備も急ピッチで進められた。初代文部大臣に就任した森有礼(もりありのり)のもとで1886年(明治19年)に各種の学校令が公布され、特に帝国大学令によって、国家に必要な官僚や学者を育成する最高学府としての東京帝国大学の地位が確立された。

翌1887年には文官試験試補及見習規則が制定され、身分や藩閥に関わらず、試験によって能力のある者を官僚として採用する近代的な官吏任用制度(文官任用制度)の基礎が築かれた。これにより、一部の特権階級だけでなく、学力によって立身出世を目指す新たなエリート層が形成されていくこととなる。

条約改正の挫折と内閣の終焉

内政において多大な功績を残した第1次伊藤内閣であったが、外交面では大きな挫折を味わうことになった。外務大臣の井上馨は、幕末に結ばれた不平等条約の改正(特に治外法権の撤廃)を目指し、欧化政策鹿鳴館外交)を推進した。

しかし、1886年のノルマントン号事件を機に国民の不満が高まる中、井上が進めていた「外国人裁判官の任用」などの妥協的な改正案が暴露されると、政府内外から猛烈な非難(三大事件建白運動)が巻き起こった。1887年に井上は辞任に追い込まれ、条約改正は失敗に終わる。その後、伊藤博文は憲法草案の最終審議を行うために新設された枢密院(すうみついん)の初代議長に転じることとなり、1888年(明治21年)4月、後を黒田清隆に託して内閣総辞職を行った。

最終更新:
2026年8月15日 @ 14:48

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