伊藤博文
【概説】
長州藩出身の幕末から明治時代にかけて活躍した政治家。内閣制度を創設して初代内閣総理大臣となり、大日本帝国憲法の制定を主導した。日本の近代立憲国家体制の骨格を築き上げた最重要人物の一人である。
幕末の志士から開国・倒幕派への転換
長州藩の農民の出身であったが、のちに武士の身分を得て吉田松陰の松下村塾に学んだ。当初は高杉晋作らとともに過激な尊王攘夷運動に身を投じていたが、1863年に井上馨らとともにイギリスへ密航留学(長州五傑)したことが大きな転機となる。ロンドンで圧倒的な西洋文明と軍事力を目の当たりにした伊藤は、攘夷の不可能性を悟り、開国と富国強兵へと急激に思想を転換させた。帰国後は長州藩の倒幕運動に参加し、維新の動乱を駆け抜けることとなる。
明治新政府での台頭と実権の掌握
明治新政府が成立すると、伊藤はその優れた語学力と海外経験を買われ、外交や実務の分野で重用された。1871年には岩倉使節団の副使として欧米を視察し、近代国家の制度や産業を深く学んだ。帰国後、木戸孝允や大久保利通の庇護を受けて政府内で頭角を現し、1878年に大久保が暗殺されると、内務卿を引き継いで政府の中心人物となった。1881年の明治十四年の政変では、イギリス流の議院内閣制の早期導入を主張する大隈重信を政府から追放し、薩長を中心とする藩閥政府の体制を固めるとともに、国会開設の詔を引き出して憲法制定に向けた主導権を握った。
内閣制度の創設と大日本帝国憲法の制定
伊藤の歴史的功績として最も重要なのが、近代的な国家体制の構築である。1882年に憲法調査のためヨーロッパへ渡った伊藤は、プロイセンのグナイストやオーストリアのシュタインに師事した。そこで、天皇の権限を強力に保障するドイツ(プロイセン)流の憲法理論が、君主権を重んじる日本の国情に最も適していると判断した。帰国後の1885年には、旧来の太政官制を廃止して内閣制度を創設し、自ら初代内閣総理大臣に就任した。その後、枢密院を設置して自ら議長として憲法草案の審議を重ね、1889年に大日本帝国憲法を発布した。これにより、日本はアジアで初めての近代立憲国家としての体裁を整えることに成功した。
超然主義からの脱却と立憲政友会の結成
憲法発布当初、伊藤は政府は政党の意向に左右されるべきではないとする超然主義を掲げていた。しかし、1890年に帝国議会が開設されると、初期議会において民党(政党)の激しい抵抗に遭い、予算成立や法案審議が困難な状況に直面した。議会運営を円滑に行うためには自前の政党が不可欠であると痛感した伊藤は、藩閥の重鎮でありながら自らの政治姿勢を転換させた。1900年、板垣退助らが結成した旧憲政党の勢力を取り込み、立憲政友会を創設して初代総裁に就任した。この決断は、長らく続いた藩閥政治から政党内閣制へと移行する重要な歴史的道筋をつけることとなった。
外交指導と韓国統監府、そして最期
国内政治だけでなく、外交面でも伊藤は元老として多大な影響力を発揮した。日清戦争(1894〜1895年)では第2次伊藤内閣の首相として戦争を指導し、下関条約の全権大使を務めた。その後の日露戦争においても、国家の最高指導層として開戦から講和まで重要な役割を担った。日露戦争後、日本が韓国の保護国化を進めると、1905年に第2次日韓協約を結んで初代韓国統監に就任し、韓国の外交権や内政を掌握した。しかし1909年、ロシアの蔵相との会談のために訪れた満州のハルビン駅において、韓国の独立運動家である安重根によって暗殺された。この事件は日本国内に大きな衝撃を与え、翌1910年の韓国併合へと歴史が加速する一因となった。