長州藩
【概説】
江戸時代に周防国と長門国(現在の山口県)の2国を領有した外様大名・毛利氏の藩。関ヶ原の戦いで西軍の総大将となった毛利氏が、戦後に大幅に減封されて成立した。幕末には尊王攘夷運動の中心となり、薩摩藩と共に明治維新を推し進め、近代日本における巨大な政治的影響力を築き上げた。
関ヶ原の戦いによる大幅減封と藩の成立
長州藩の起源は、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いに遡る。中国地方に112万石(検地による実高はさらに多い)の大領を誇っていた毛利輝元は、石田三成に擁立されて西軍の総大将となった。しかし、戦後に徳川家康から領地を没収され、周防国と長門国(防長二国)の約36万石余へ大幅に減封された。輝元は日本海に面した僻地である萩に萩城を築いて居城としたため、一般的に萩藩とも呼ばれる。この過酷な処分により、毛利家や家臣団の間に徳川幕府に対する強い遺恨が生まれたとされ、長州藩の底流には反幕府的な精神風土が培われていくこととなった。
専売制の展開と天保の藩政改革
江戸時代の長州藩は、家臣団の規模に対して石高が極端に少なかったため、初期から深刻な財政難に悩まされた。これに対応するため、藩は検地を徹底して実高の把握に努めるとともに、新田開発や商品作物の栽培を積極的に推進した。特に「防長四白」と呼ばれた米・紙・塩・蝋の生産と専売制は藩財政の重要な基盤となった。19世紀に入ると財政は再び逼迫したが、1838年(天保9年)から村田清風を登用して天保の改革を断行した。借金の整理や専売制の改革、さらには下関での越荷方(金融・倉庫業)の拡充により巨額の利益を上げ、これを「撫育銀」という特別会計の裏金として蓄積した。この豊かな経済力が、後の幕末期に軍制改革や最新鋭の武器購入を行うための強力な資金源となったのである。
松下村塾の胎動と尊王攘夷運動の激化
幕末期、長州藩は水戸藩と並ぶ尊王攘夷運動の急先鋒となった。その精神的支柱となったのが、吉田松陰が主宰した松下村塾である。松陰自身は安政の大獄で処刑されたが、彼の教えを受けた高杉晋作、久坂玄瑞、木戸孝允(桂小五郎)、伊藤博文、山県有朋ら多くの若き志士たちが、身分を問わず国政に参画する意識を強めていった。長州藩は朝廷内の急進派公家と結びついて京都の政局を主導し、1863年(文久3年)には下関で外国船を砲撃した(下関戦争)。しかし、同年8月の八月十八日の政変で京都から追放され、翌1864年(元治元年)の禁門の変(蛤御門の変)で会津藩・薩摩藩に敗北して朝敵となるなど、深刻な打撃を受けた。さらに、米英仏蘭の四国艦隊による下関報復攻撃を受け、攘夷の不可能性を実戦をもって思い知らされることとなった。
倒幕への転換と明治維新の完遂
相次ぐ敗北と幕府による第一次長州征討を受け、藩内では一時的に保守派(俗論派)が実権を握り幕府に恭順した。しかし、1864年末に高杉晋作らが正規軍に属さない民兵組織である奇兵隊などを率いて功山寺で挙兵し、クーデターを成功させて藩論を武力倒幕へと統一した。大村益次郎のもとで西洋式の軍制改革を推し進めた長州藩は、1866年(慶応2年)に坂本龍馬らの仲介により、かつての政敵であった薩摩藩と薩長同盟を密約する。同年の第二次長州征討(四境戦争)では幕府軍を最新鋭の兵器と近代戦術で圧倒し、幕府の権威を完全に失墜させた。その後、薩摩藩と共に新政府軍の主力として戊辰戦争を勝ち抜き、明治維新を完遂させた。1871年(明治4年)の廃藩置県によって長州藩は消滅したが、長州出身者は明治政府の中枢を占め、「長州閥」として近代日本の政治や軍事(特に帝国陸軍)において絶大な権力を握り続けた。