商場知行制 (あきないばちぎょうせい)
【概説】
江戸時代、蝦夷地を支配した松前藩が、上級家臣に対して領地(土地)の代わりにアイヌとの交易権を知行として付与した制度。家臣は指定された特定の商場(交易拠点)で独占的に交易を行い、そこから得られる利益を経済的基盤とした。米の収穫が見込めない蝦夷地ならではの特殊な知行形態である。
制度成立の背景と松前藩の特殊性
江戸幕府の幕藩体制下において、諸大名は家臣に対して土地(知行地)を与え、そこから上がる年貢(米)を俸禄とするのが一般的な知行制であった。しかし、寒冷な気候である蝦夷地(現在の北海道)を支配する松前藩の領国では、稲作が不可能であり、米を基準とした石高制を適用することができなかった。
1604年(慶長9年)、初代藩主・松前慶広は徳川家康から黒印状を得て、アイヌとの交易独占権を公認された。これにより松前藩は、アイヌとの交易利益をもって藩の経済基盤とすることになり、家臣への知行も土地ではなく「交易を行う権利」によって代替する特殊な制度が形作られていった。
商場知行制の仕組み
松前藩は、蝦夷地の沿岸部や河川流域にアイヌとの交易拠点である「商場(あきないば)」を設定した。そして、一族や上級家臣に対して、特定の商場におけるアイヌとの独占的な交易権を知行として与え、これを商場知行制と呼んだ。
知行主(給人)は毎年夏になると、米や酒、鉄製品、漆器などの和産物を船に積み込んで自身の商場へ赴き、現地のアイヌが狩猟・漁労で得た鮭、昆布、獣皮(熊や蝦夷鹿など)、さらには山丹交易を経由した清の絹織物(蝦夷錦)などと交換した。知行主はこの交易で得た品を本州の市場で売却することで、自らの経済的基盤(実質的な俸禄)を確保していたのである。一方、下級家臣に対しては、藩主の直轄地からの収益を分配する蔵米知行に類する形態がとられた。
アイヌ社会への影響と反発
初期の商場知行制においては、アイヌ側にもある程度の交渉力があり、比較的対等な交易が行われていたとされる。しかし、松前藩の財政事情の悪化や和人側の利益追求が強まると、次第に知行主による不等価交換や強制的な取引が横行するようになった。和産物の交換比率は一方的にアイヌにとって不利なものへと改悪され、アイヌの人々の生活は困窮していくこととなる。
こうした松前藩による不当な交易体制への不満はアイヌ社会に蓄積し、1669年(寛文9年)に日高地方の首長を主導者とするシャクシャインの戦いという大規模な蜂起を引き起こす要因となった。松前藩は幕府や東北諸藩の支援を得てこれを鎮圧し、以降、アイヌに対する政治的・経済的支配をさらに強化していった。
場所請負制への移行
18世紀に入ると、商場知行制は大きな転換点を迎える。和産物の調達や船の運航には多額の資金が必要であったが、武士である家臣たちは商業的な才覚や資本に乏しく、借金を抱えて没落する者が続出した。そのため、知行主は自ら交易を行うことを諦め、一定の運上金(手数料)を納めさせることを条件に、商場での交易権を近江商人などの有力な本州の和人商人に委託するようになった。
これに伴い、「商場」という呼称は「場所」へと変わり、商人が経営を請け負うこの新たな制度は場所請負制(ばしょうけおいせい)と呼ばれるようになった。場所請負制への移行により、和人商人は利益を極大化するため、アイヌを単なる交易相手ではなく、漁場における安価な労働力として酷使するようになり、蝦夷地の経済構造とアイヌ社会はさらなる変容を遂げることとなった。