森有礼

第1次伊藤内閣で初代文部大臣に就任し、「学校令」を公布して国家主義的な教育制度を確立したが、のちに暗殺された人物は誰か?
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★★★

【参考リンク】
森有礼(Wikipedia)

森有礼 (もりありのり)

1847〜1889

【概説】
第一次伊藤内閣において初代文部大臣を務め、近代日本の教育制度の骨格を築いた明治時代の政治家、啓蒙思想家。西洋の近代思想を深く理解し、「学校令」の制定を通じて国家主義的な観点から教育体系を整備したが、大日本帝国憲法発布の日に暗殺された。

薩摩藩士としての出自と欧米体験

1847年、薩摩藩士の家に生まれる。藩の洋学校である開成所で学び、1865年には五代友厚らとともに薩摩藩の留学生としてイギリスへ密航した。現地で西洋の近代科学や社会制度を目の当たりにし、さらにロシアやアメリカにも渡航した。この若き日の海外体験が、後の彼の合理主義的・近代的な思想の強固な土台となった。明治維新後に帰国すると、その卓越した語学力と国際感覚を買われて新政府に出仕し、初代駐米少弁務使(公使)などに任命され、外交官として活躍した。

明六社の創設と啓蒙活動

1873(明治6)年に帰国した森は、欧米の近代的な思想や文化を日本に普及させるため、福沢諭吉、西周、加藤弘之、中村正直ら当時の代表的な知識人に呼びかけ、明六社を設立した。彼らは機関誌『明六雑誌』を発行し、文明開化期の思想界を大いに牽引した。

森自身も、一夫一婦制の提唱や、妻・広瀬常との日本初となる「契約結婚」の実践など、当時の封建的な家族観や道徳観を打破する急進的な啓蒙思想家として知られた。また、極端な欧化主義の一環として日本の公用語を英語にするべきだという「英語国語化論」を唱えたことでも有名である。

初代文部大臣への就任と「学校令」の制定

外交官として清国やイギリスで任務にあたったのち、1885(明治18)年に内閣制度が創設されると、第一次伊藤博文内閣の初代文部大臣に抜擢された。森は、富国強兵を目指す近代国家にとって教育がいかに重要であるかを痛感しており、抜本的な教育改革に着手した。

1886(明治19)年、彼は学校令(帝国大学令、師範学校令、中学校令、小学校令の総称)を公布した。この改革の最大の特徴は、国家に有用な人材を育成するという国家主義的教育観に基づく学校体系を確立した点にある。特に国家の指導者養成を担う帝国大学(現在の東京大学)には高度な学問の自由を保障する一方で、教員を養成する師範学校では兵式体操を導入し、生徒に厳格な規律と国家への忠誠を求めた。これにより、戦前の日本の学校教育制度の基礎が完成したのである。

凶刃に斃れた最期とその歴史的評価

文部大臣として精力的に改革を進めていた森であったが、その徹底した合理主義や西欧的な態度は、保守派や国粋主義者の反感を招くことも多かった。1887年の伊勢神宮参拝時に、社殿の御簾をステッキで持ち上げたという「伊勢神宮不敬事件」の噂が誇張して報じられると、彼への批判は頂点に達した。そして1889(明治22)年2月11日、大日本帝国憲法発布の式典に向かう朝、国粋主義者の西野文太郎によって刺殺された。享年43であった。

森有礼の構築した教育制度は、翌1890年に発布された「教育勅語」と結びつき、結果的に天皇を中心とする強力な国家主義・軍国主義教育の土台として機能していくことになる。しかし、森自身の真意は単なる復古的な皇国史観の強制ではなく、欧米列強に対抗しうる独立した近代国家の国民を創出するための、極めて合理的で実利的なシステム構築にあった。その思想の先見性と、日本近代教育史に残した決定的な足跡は計り知れない。

森有礼の思想 (1969年)

明治の啓蒙思想家による近代日本の教育と国家のあり方を鋭く問い直す、思想史研究の金字塔的論考。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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