伊東巳代治 (いとうみよじ)
1857年〜1934年
【概説】
明治から昭和初期にかけて活躍した官僚、政治家。伊藤博文の側近として大日本帝国憲法の起草に尽力した「憲法起草の三羽烏」の一人。後年は枢密顧問官として長きにわたり政界に隠然たる影響力を振るい、「枢密院の妖怪」とも恐れられた。
伊藤博文の「懐刀」と明治国家の設計
伊東巳代治は肥前国長崎の町役人の家に生まれた。抜群の語学力(英語)を生かして官界に入り、参議・工部卿であった伊藤博文の知遇を得てその秘書官となった。1882(明治15)年の伊藤のヨーロッパ憲法調査に随行し、帰国後は井上毅、金子堅太郎とともに大日本帝国憲法や皇室典範の起草作業に直接携わった。伊東は実務能力と俊敏な筆鋒をもって伊藤博文の構想を具体的な法文へと落とし込み、初期の明治国家の骨組みを設計する上で不可欠な存在として活躍した。
枢密院の巨頭としての君臨と政党政治への抵抗
伊藤の死後、伊東は活動の拠点を天皇の最高諮問機関である枢密院へと移した。1899(明治32)年に枢密顧問官に就任して以来、約35年間にわたってその地位に留まり、大正から昭和初期にかけて「枢密院の巨頭」として政界を震え上がらせた。彼は天皇の輔弼機関としての枢密院の権限を最大限に利用し、政党政治や対外協調を掲げる外交路線に対して批判的な立場からしばしば介入を試みた。特に1927(昭和2)年の金融恐慌の際、第1次若槻礼次郎内閣が提出した台湾銀行救済緊急勅令案を否決し、内閣を総辞職に追い込んだ事件や、1930(昭和5)年のロンドン海軍軍縮条約の批准をめぐる統帥権干犯問題での政府追及などは、昭和初期の政治的混迷を深める要因となった。