枢密院 (すうみついん)
【概説】
1888年(明治21年)、大日本帝国憲法草案を秘密裏に審議するために設立された天皇の最高諮問機関。憲法制定後も国家の重要事項を審議し、内閣に対して多大な影響力を行使したが、日本国憲法の施行に伴い1947年に廃止された。
設立の背景と憲法草案の審議
1881年(明治14年)に「国会開設の勅諭」が出されて以降、近代国家としての体裁を整えるための憲法制定は日本の急務であった。伊藤博文らによってプロイセン(ドイツ)憲法を模範とする保守的な憲法草案が起草されたが、これを民間の自由民権運動家や政府内の通常機関の議論に晒すことは避けられた。天皇の主権を重んじる観点から、天皇の御前で秘密裏に審議して確定させるための特別機関が必要とされたのである。
そこで1888年(明治21年)、伊藤博文自身が初代議長に就任する形で設立されたのが枢密院である。枢密院は、天皇の臨席のもとで大日本帝国憲法および皇室典範の草案を慎重に審議し、これを承認するという極めて重要な役割を果たした。
憲法上の地位と強大な権限
1889年(明治22年)に発布された大日本帝国憲法において、枢密院は「天皇ノ諮詢ニ応ヘ重要ノ国務ヲ議ス」(第56条)と規定され、恒久的な天皇の最高諮問機関として法的に位置づけられた。皇室典範の改正、憲法の条項の解釈・改正、戒厳の宣告、緊急勅令の制定、国際条約の締結など、国家の命運を左右する重要事項については、天皇が枢密院に諮問することが慣例となった。
枢密院は内閣から完全に独立した機関であり、内閣が提出した案に対して修正を求めたり、事実上の拒否権を行使したりすることが可能であった。枢密院のメンバーである枢密顧問官には、元老、元首相、高級官僚、軍の重鎮などの特権階級が任命されたため、その保守的な性質はのちの政治過程に大きな影響を与えた。
政党内閣との激しい対立
大正デモクラシー期から昭和初期にかけて、衆議院の多数派を基盤とする政党内閣が成立するようになると、「藩閥・官僚の牙城」であった枢密院は、たびたび民主的な政策や政党政治に対して干渉を行った。
その最も代表的な事件が、1927年(昭和2年)の昭和金融恐慌における第一次若槻礼次郎内閣の総辞職である。若槻内閣は、経営破綻の危機にあった台湾銀行を救済するため緊急勅令の発布を求めたが、枢密院はこれを違憲であるとして否決した。この結果、内閣は行き詰まり総辞職に追い込まれたのである。さらに、1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮条約の批准の際にも、統帥権干犯問題を背景に浜口雄幸内閣と激しく対立した。このように枢密院は、時として行政の足並みを乱し、日本の政党政治の健全な発展を阻害する側面を持っていた。
機能の形骸化と組織の終焉
日中戦争から太平洋戦争へと向かう戦時体制下において、軍部の台頭や大政翼賛体制の構築が進むと、枢密院の独自性は徐々に失われた。次第に政府や軍部の決定事項を事後的に追認するだけの機関へと変質していったのである。
敗戦後、日本の民主化が進められる中で、枢密院は新憲法(日本国憲法)の草案審議という最後の重要な職務を遂行した。そして、国民主権を基本原則とする新憲法下においては、天皇の個人的な諮問機関が存続する余地はなく、1947年(昭和22年)5月3日の日本国憲法施行と同時に、およそ60年にわたる歴史に幕を下ろした。