本阿弥光悦 (ほんあみこうえつ)
【概説】
京都の豪商にして、書や陶芸、蒔絵など多岐にわたる分野で独自の美の世界を築き上げた江戸時代初期の総合芸術家。徳川家康から洛北の鷹峯に土地を与えられて芸術村を形成したほか、「寛永の三筆」の一人としても知られる。
刀剣鑑定の名門と多様な交流
本阿弥光悦は、足利尊氏の時代から刀剣の鑑定、研磨、浄拭(ぬぐい)を家業としてきた名門・本阿弥家の分家に生まれた。刀剣を扱うという職業柄、為政者である有力武将たちや、高い教養を持つ公家、そして角倉了以をはじめとする京都の富裕な上層町衆と広範なネットワークを築くことができた。こうした恵まれた環境の中で、光悦は一流の美術品に日常的に触れ、類まれなる審美眼と芸術的感性を磨き上げていったのである。
鷹峯への移住と「芸術村」の創設
1615年(元和元年)、光悦は徳川家康から京都洛北の鷹峯(たかがみね)に広大な土地を拝領した。光悦はここに一族や縁者を連れて移住し、さらに熱心な法華宗(日蓮宗)の信者であった彼は、同信仰を持つ紙屋、筆屋、織屋、蒔絵師などのさまざまな工芸職人を集住させた。こうして鷹峯は、信仰と芸術が一体となった日本史上類を見ない「芸術村」として発展した。なお、家康が光悦に土地を与えた理由については、優れた芸術家に対するパトロンとしての純粋な支援という側面のほか、影響力の強い京都の有力な町衆を洛中から引き離し、政治的に隔離する意図があったとする説も根強い。
「寛永の三筆」と俵屋宗達との協働
光悦の芸術的才能は多岐にわたるが、なかでも書の分野で高く評価されており、近衛信尹、松花堂昭乗とともに「寛永の三筆」の一人に数えられている。彼の書は、平安時代の王朝文化の優雅さを取り入れつつも、大胆で装飾的な新しい構成美を持っていた。とくに、当時京都で活躍していた新進気鋭の町絵師・俵屋宗達とのコラボレーションは日本美術史における特筆すべき事象である。宗達が金銀泥で描いた下絵の上に、光悦が流麗な筆致で和歌を散らし書きした『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』などの数々の名作は、後に尾形光琳・乾山兄弟らによって大成される「琳派」という日本美術の巨大な潮流の源流となった。
茶の湯と作陶、寛永文化の牽引者として
また、光悦は茶の湯にも深く傾倒し、千利休の高弟である古田織部らと親交を結んで独自の茶風を追求した。彼は自ら土を捻り、樂家の二代常慶や三代道入の協力を得て数多くの楽焼の茶碗を制作している。彼が作陶した白楽茶碗「不二山(ふじさん)」は、国産の茶碗として国宝に指定されている数少ない名品の一つである。桃山時代の豪壮な気風から、江戸時代初期の洗練された寛永文化へと移行する過渡期において、公家の古典的教養と町衆の斬新な活力を融合させた光悦の功績は極めて大きく、日本文化史上に不滅の足跡を残している。