鹿鳴館外交 (ろくめいかんがいこう)
【概説】
明治時代中期の1880年代に、外務卿(のち外務大臣)の井上馨が推進した極端な欧化主義に基づく外交政策。近代的な社交施設「鹿鳴館」を建設して連夜の舞踏会などを開催し、日本が西洋と同等の文明国であることをアピールして不平等条約の改正を目指した。しかし、国内の強い反発を招いて挫折に追い込まれた。
条約改正を目指した「欧化政策」の背景
明治新政府にとって、幕末に江戸幕府が結んだ不平等条約の改正は、国家主権を確立するための悲願であった。特に領事裁判権(治外法権)の撤廃と関税自主権の回復は、近代国家としての独立を認めさせるための最優先課題であった。1879(明治12)年に外務卿に就任した井上馨は、武力や強硬な交渉ではなく、日本の制度や生活様式を西洋風に改めることで、欧米諸国に日本を「文明国」と認めさせ、対等な立場から条約改正を進めようと考えた。この方針のもとで推進されたのが、極端な西洋化を推し進める欧化政策であった。
鹿鳴館の建設と「欧化狂瀾」の実態
欧化政策の象徴として、1883(明治16)年に国賓の迎賓館として東京・日比谷に建設されたのが鹿鳴館である。イギリス人建築家ジョサイア・コンドルの設計による煉瓦造り2階建ての洋風建築で、落成後は連夜のように舞踏会やバザー、夜会が開催された。井上や政府高官、その夫人たちは、慣れないドレスやタキシードを身にまとい、外国人外交官らと社交に励んだ。こうした過度な西洋模倣の風潮は、当時の知識人や世論から「猿真似」と冷ややかに風刺され、のちに「欧化狂瀾」と批判を浴びることとなった。
妥協案への反発と外交路線の挫折
井上はこのような懐柔外交を背景に、1886(明治19)年から条約改正交渉を本格化させた。しかし、彼が提示した改正案は、領事裁判権の撤廃と引き換えに、国内の裁判所に外国人判事を任用することや、国内の全域を外国人に開放する「内地雑居」を認めるなど、主権を著しく侵害しかねない妥協的な内容であった。この妥協案がリークされると、政府内からも農商務相の谷干城らが猛烈に反対した。また、政府外でも自由民権派がこれを批判し、三大事件建白運動を起こして政府の軟弱外交を厳しく追及した。さらに同年に起きたノルマントン号事件が不平等条約への不満をさらに爆発させ、世論の反発を抑えきれなくなった井上は1887(明治20)年に外相を辞任。こうして鹿鳴館外交は終焉を迎え、条約改正の課題は次代の青木周蔵や陸奥宗光らへと引き継がれることとなった。