条約改正
【概説】
幕末に江戸幕府が欧米列強と結んだ不平等条約を、独立国家として対等な内容に改めるために明治政府が推進した一連の外交交渉。領事裁判権(治外法権)の撤廃と関税自主権の回復を二大目標とし、法典編纂や近代化政策と表裏一体で進められた。幾度もの政治的挫折を経ながらも、日清・日露戦争における勝利を背景に、1911年に完全な条約改正が達成された。
不平等条約の呪縛と条約改正の始動
1858年(安政5年)、江戸幕府はアメリカをはじめとする欧米列強と安政の五カ国条約を締結し、開国に踏み切った。しかし、この条約は日本にとって著しく不利な不平等条約であった。具体的には、外国人が日本で犯した罪をその母国の領事が裁く領事裁判権(治外法権)を認め、日本が輸入品に関税をかける権限である関税自主権を持たない(協定関税制)、さらには相手国にのみ有利な条件を自動的に与える片務的最恵国待遇を課せられるという屈辱的な内容であった。
1868年に成立した新政府にとって、独立国家としての威信を取り戻し、列強と対等な関係を築くことは最重要の外交課題となった。1871年(明治4年)、政府は岩倉具視を全権大使とする岩倉使節団を欧米に派遣し、条約改正の予備交渉を試みた。しかし、日本国内の法制度が未整備であり、近代国家としての体裁が整っていないことを理由に列強から全く相手にされず、条約改正には国内の近代化、とりわけ法典編纂が不可欠であることを痛感させられる結果となった。
欧化政策とナショナリズムの激突
条約改正交渉が本格化するのは、1879年(明治12年)に外務卿(後に外務大臣)に就任した井上馨の時代からである。井上は、日本が西洋文明を身につけた近代国家であることを列強にアピールするため、極端な欧化政策を推進した。その象徴が、外国人高官や外交官を招いて連日舞踏会を開いた鹿鳴館である。
井上は外国人を日本の裁判官として任用するなどの妥協案で改正を目指したが、1886年(明治19年)にイギリス船が沈没し、日本人乗客全員が水死したにもかかわらず、イギリス人船長が領事裁判で極めて軽い刑しか受けなかったノルマントン号事件が発生する。これが引き金となり、国内で欧化政策や妥協的な条約改正に対する激しい反発(三大事件建白運動など)が沸き起こり、井上は辞任に追い込まれた。
相次ぐ交渉の挫折と大津事件
井上の後を継いだ大隈重信は、列強が足並みを揃える共同交渉から、交渉相手を大国に絞る個別交渉に転じ、大審院(最高裁判所)にのみ外国人判事を任用する条件でアメリカ・ドイツなどと交渉をまとめた。しかし、この譲歩内容がロンドン・タイムズ紙の報道で暴露されると、主権侵害であるとして国内の激しい反対運動に直面する。大隈は右翼青年に爆弾を投げつけられ右足を切断する重傷を負い、交渉は再び頓挫した。
次いで外務大臣となった青木周蔵は、外国人判事の任用を完全に廃止する強硬な案でイギリスとの交渉を順調に進めた。しかし、1891年(明治24年)に日本を訪問中だったロシアの皇太子(後のニコライ2世)が警備の警察官に切りつけられる大津事件が発生する。青木はこの責任をとって辞任し、条約改正はまたしても先送りとなった。
領事裁判権の撤廃と関税自主権の回復
幾度もの挫折を経て、条約改正はようやく結実の時を迎える。第2次伊藤博文内閣の外務大臣・陸奥宗光は、大日本帝国憲法の発布(1889年)や民法・刑法などの法整備が進展したことを背景に、極秘裏にイギリスと交渉を進めた。その結果、日清戦争開戦直前の1894年(明治27年)7月、日英通商航海条約が調印され、悲願であった領事裁判権の撤廃と、一部の関税引き上げが実現した。その後、他の列強とも同様の条約が結ばれ、1899年(明治32年)に新条約が発効し、日本国内に外国人が自由に居住・営業できる内地雑居が認められた。
残された最大の課題である関税自主権の完全回復は、日清戦争および日露戦争での勝利によって日本の国際的地位が大きく向上したことで現実味を帯びた。第2次桂太郎内閣の外務大臣・小村寿太郎は、条約の期限が切れる1911年(明治44年)を機にアメリカと日米通商航海条約を結び、ついに念願の関税自主権の完全回復を達成した。ここに、幕末の開国以来およそ半世紀にわたって日本を苦しめてきた不平等条約の束縛は完全に解消され、日本は名実ともに列強と肩を並べる近代独立国家としての地位を確立したのである。