治罪法 (ちざいほう)
【概説】
1880(明治13)年に公布された、犯罪の捜査から起訴、裁判にいたる刑事手続きを規定した我が国最初の近代的な刑事訴訟法。フランスの法学者ボアソナードが起草し、同年に公布された旧刑法とともに1882(明治15)年から施行された。国家の刑罰権の行使を法的に秩序づけ、日本の刑事司法制度を近代化させる画期となった法律である。
ボアソナードの招聘とフランス刑事法の受容
明治政府にとって、幕末に欧米列強と結んだ不平等条約の改正、とりわけ領事裁判権(治外法権)の撤廃は最優先の国家課題であった。欧米諸国から「未開の法制度」と見なされている状況を打破するためには、人権保障や近代的訴訟手続きを備えた本格的な法典の編纂が不可欠であった。そこで政府は、フランスの法学者ボアソナードをお雇い外国人として招聘し、近代法典の起草を委ねた。
ボアソナードは、フランスの刑事訴訟法(Code d’instruction criminelle)を範にとり、日本の伝統的な慣習を考慮しつつ「治罪法」を起草した。これにより、従来の「断獄」(刑事裁判)と呼ばれた前近代的な纠問主義(捜査官が裁判官を兼ね、自白を強要する仕組み)から、国家が訴追を行い裁判官が第三者として裁く近代的な弾劾主義への転換が図られることとなった。
予審制度の導入と司法の近代化
治罪法の制定によってもたらされた最大の変革は、刑事手続きの明確化と、人権保障への配慮が盛り込まれた点にある。なかでもフランス法の特徴である予審制度が導入された。これは、公判(本格的な裁判)に付す前に、予審判事が事件の犯罪嫌疑の有無や証拠の真偽を事前に審査するシステムである。
また、公判段階においては弁護人(当時は代言人)の立ち会いが認められ、被告人の防御権が初めて法的に保障された。さらに、前年の1879(明治12)年に出された拷問廃止の太政官布告を法的に裏付けるものとなり、過酷な拷問による自白偏重の裁判から、証拠を重視する客観的な裁判への道が開かれた。ただし、予審段階での弁護人立ち会いは認められないなど、国家権力(検察官・警察)の権限が優位に立つ限界も内包していた。
大日本帝国憲法体制と「刑事訴訟法」への移行
治罪法は近代的な刑事手続きを定着させる上で大きな役割を果たしたが、1880年代後半以降、日本の法制整備の主潮流はフランス法系からドイツ(プロイセン)法系へと傾斜していく。大日本帝国憲法の制定(1889年)を中心とする国家体制の整備に伴い、司法制度もドイツ風の国家主義的な性格を強めることとなった。
この流れの中で、1890(明治23)年にドイツ刑事訴訟法を模範とした新たな「刑事訴訟法(明治刑事訴訟法)」が制定され、これに伴い治罪法は廃止された。しかし、治罪法がもたらした起訴・予審・公判という刑事訴訟の基本骨格や、司法官の職務分離といった先駆的な試みは、その後の刑事訴訟法へと受け継がれ、日本の近代司法の土台を規定し続けたのである。