アメリカ教育使節団
【概説】
太平洋戦争後の連合国軍占領下において、日本の教育制度を調査・改革するために来日したアメリカの教育専門家による使節団。国家主義・軍国主義的な教育を排除し、民主主義的な新教育制度の基本方針を定めた報告書を提出した。戦後日本の「6・3・3・4制」の導入や教育基本法の制定など、現代に続く教育体制の基礎を築いた存在として知られる。
使節団の来日と占領軍の教育民主化政策
1945年(昭和20年)の敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は日本の非軍事化と民主化を強力に推進した。その一環として、戦前の国家主義・超国家主義的な教育の解体が急務とされた。GHQはすでに、修身・日本歴史・地理の授業停止や、教科書の「墨塗り」などの応急措置を実施していたが、根本的な教育改革を行うため、アメリカの本国政府に対して専門家の派遣を要請した。
これに応じて、ニューヨーク州教育局長(後にイリノイ大学総長)のジョージ・ストダードを団長とする27名のアメリカ教育使節団が、1946年3月に来日した。彼らは約1ヶ月にわたり、日本の教育関係者や知識人(日本側の受け入れ機関である「日本教育家委員会」など)と協議を重ね、各地の学校を視察して日本の教育の実態を調査した。
「アメリカ教育使節団報告書」の提言内容
1946年3月30日、使節団は連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーに「アメリカ教育使節団報告書」(のちに1950年にも第二次報告書が出されたため、一般に「第一次報告書」と呼ばれる)を提出した。この報告書は、日本の教育刷新に向けた極めて具体的な青写真を示すものであった。
報告書では、まず教育の目的を「個人の尊厳の確立」とし、戦前の教育勅語に基づく一国主義的な道徳教育を否定した。具体的な改革案として、義務教育の延長と男女共学の推進、さらに単線型の「6・3・3・4制」(小学校6年、中学校3年、高校3年、大学4年)の導入を提言した。また、教育行政の権限を文部省(当時)から地方へと分散させるため、公選制の教育委員会の設置を求めたほか、授業方法も暗記中心から児童・生徒の自発性を重んじる新教育(生活単元学習など)へと転換することを推奨した。
なお、報告書の中には、日本語の難解さが民主主義の普及を妨げているとして、漢字・ひらがな・カタカナを廃止し、ローマ字表記を採用すべきであるという、アメリカ側の理想主義的かつ性急な言語改革案も含まれていたが、これはのちに日本側の慎重な対応によって全面的な導入は回避された。
戦後教育改革への決定的な影響
マッカーサーはこの報告書を「日本の教育にとって記念碑的な道標」と絶賛し、日本政府に対して報告書に沿った改革を促した。日本側ではこれを受け、首相の諮問機関として「教育刷新委員会」が組織され、具体的な制度設計が進められた。
この提言を具現化する形で、1947年(昭和22年)に戦後日本の教育の憲法とされる教育基本法、および学校制度の具体枠組みを定めた学校教育法が制定された。これにより、現在に至る日本の学校制度の骨格が形成された。アメリカ教育使節団による勧告は、上からの占領改革という側面を持ちつつも、日本の知識人や教育界が抱いていた民主主義教育への希求と結びつくことで、戦後日本社会の民主化を大きく決定づける役割を果たしたのである。