神奈川 (かながわ)
【概説】
日米修好通商条約において、箱館や長崎などとともに開港場として指定された東海道の要衝。しかし、幕府は攘夷派浪士と外国人との衝突を懸念し、実際の開港地を対岸の宿場町から離れた「横浜」へと変更した経緯を持つ歴史的地名。
日米修好通商条約と「神奈川開港」の合意
1858(安政5)年、江戸幕府は大老井伊直弼のもとで、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印した。この条約において、それまで開港していた下田を閉鎖する代替地として、新たに「神奈川」を翌1859(安政6)年に開港することが定められた。神奈川は当時、江戸湾(東京湾)に面した海上交通の要地であり、同時に東海道の主要な宿場町(神奈川宿)としても栄えていた。アメリカ初代総領事のハリスらは、将軍の膝元である江戸に近く、通商の拠点として極めて有利なこの地の開港を強く要求し、認めさせたのである。
幕府の危惧と「横浜」への変則的な開港
しかし、条約調印後に幕府は重大な警備上の問題に直面した。当時は尊王攘夷思想が急速に高まっており、大名行列や武士、庶民が日常的に往来する東海道沿いに外国人を居住させれば、衝突事件が頻発することは目に見えていた。そこで幕府は、東海道から外れた対岸に位置する寂れた漁村であった横浜(現・横浜市中区周辺)に着目した。幕府は横浜を「神奈川の一部(神奈川在)」であると強弁し、突貫工事で税関や港湾設備、外国人居留地を建設。1859(安政6)年6月、実質的に横浜を「神奈川港」として開港する措置をとった。
列強の抵抗と既成事実化、そして「生麦事件」へ
ハリスやイギリス領事のオールコックら各国の外交官は、幕府によるこの措置を、外国人を主要街道から隔離する「出島化」であるとして激しく反発した。彼らは条約の文面通りに神奈川宿側での開港を求め、宿場内の寺院(本覚寺など)に領事館を置いて抵抗した。しかし、実利を重んじる外国人の商人たちは、すでに水深が深く港湾として優れていた横浜に次々と商館を建設して取引を開始。これにより既成事実化が進み、横浜は瞬く間に日本最大の国際貿易港へと成長していった。なお、幕府が最も恐れていた「東海道での外国人との衝突」という懸念は、1862(文久2)年に神奈川宿近郊で薩摩藩の行列を横切ったイギリス人が斬られた生麦事件によって、現実のものとなる。