下田
【概説】
日米和親条約によって箱館とともに日本で最初に開港された、伊豆半島南端の港湾都市。初代アメリカ総領事ハリスが滞在して日米修好通商条約の交渉舞台となったが、同条約に基づく神奈川などの開港に伴い、わずか5年余りで閉鎖された。
日米和親条約と下田開港の背景
1854(安政元)年、江戸幕府がアメリカ東インド艦隊司令長官ペリーとの間で結んだ日米和親条約により、伊豆の下田は北海道の箱館(函館)とともに開港地となった。下田が選ばれた最大の理由は、江戸に比較的近い良港でありながら、天城山などの険しい地形に阻まれて江戸への陸路での接近が困難であり、幕府にとって防衛・監視が容易だったためである。下田の開港は、長崎のような制限された「貿易」を目的としたものではなく、アメリカ船への薪水、食料、石炭などの物資供給や、漂流民の救護を主目的とするものであった。
ハリスの来航と外交交渉の舞台
1856(安政3)年、日米和親条約の規定に基づき、初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが下田に着任した。ハリスは下田の玉泉寺に総領事館を置き、ここを拠点として幕府との間で本格的な通商条約の締結に向けた交渉を開始した。下田は単なる補給港としての枠組みを超え、日本が近代的な国際社会へと組み込まれていくための、極めて重要な外交交渉の最前線へと変貌を遂げたのである。
日米修好通商条約と下田の閉鎖
ハリスとの交渉の結果、1858(安政5)年に日米修好通商条約が締結された。この条約では、神奈川(横浜)、長崎、新潟、兵庫(神戸)の5港(箱館は継続)を新たに開港し、本格的な自由貿易を開始することが合意された。これに伴い、「神奈川開港の半年後に下田を閉鎖する」という規定が設けられた。より江戸に近く貿易に適した横浜(神奈川)が実質的な開港地として整備されたため、下田はその役割を終え、1859(安政6)年に閉鎖された。開港期間こそ短かったものの、幕末の開国期において、外交史上の先駆的な役割を果たした地として歴史にその名を刻んでいる。