ランシング
【概説】
第一次世界大戦期にアメリカのウッドロー・ウィルソン政権で国務長官を務めた政治家・外交官。1917年に日本の特派大使である石井菊次郎と交渉を行い、中国における日米双方の利権をめぐる「石井・ランシング協定」を締結した人物。
第一次世界大戦と日米の中国権益対立
第一次世界大戦が勃発すると、日本は日英同盟を口実に参戦し、ドイツ領であった中国の山東半島や南洋諸島を占領した。さらに1915年には、中華民国の袁世凱政府に対して対華二十一ヵ条要求を突きつけ、中国における権益を急速に拡大させた。これに対し、中国市場への進出を狙っていたアメリカは、伝統的な外交方針である門戸開放・機会均等・領土保全の原則を脅かすものとして、日本への警戒感と反発を強めていった。
しかし、1917年4月にアメリカが第一次世界大戦に参戦すると、状況は変化した。共同の敵であるドイツと戦うにあたり、アメリカは極東での権益をめぐる日本との摩擦を一時的に回避し、後方の安全を確保する必要が生じたのである。こうした中、アメリカ国務長官であったロバート・ランシングは、日本政府が派遣した特派大使の石井菊次郎との間で外交交渉に臨むこととなった。
「石井・ランシング協定」の締結とその二面性
1917年11月、両者の間で結ばれた石井・ランシング協定は、日米双方の主張を折衷した極めて曖昧で妥協的な内容であった。同協定においてアメリカは、日本が中国(特に満洲など)と「地理的近接関係」にあることを理由に、日本が中国において特殊の利益(スペシャル・インタレスト)を有することを承認した。その一方で、日本側は中国の領土保全や、米国の主張する門戸開放・機会均等の原則を尊重することを約束した。
この協定は、日本側からは「アメリカが日本の満洲支配を黙認した」と解釈され、アメリカ側からは「日本の行動を門戸開放の枠内に繋ぎ止めた」と解釈されるなど、双方が自国に都合の良い解釈を可能とする二面性を持っていた。結果として、大戦中における日米の一時的な妥協と緊張緩和をもたらすことには成功した。
ワシントン体制への移行と協定の廃棄
第一次世界大戦が終結すると、アメリカは再び日本への牽制を強めるようになった。大戦によってアジア・太平洋地域における日本の発言権が肥大化したことを懸念したアメリカは、1921年から1922年にかけてワシントン会議を提唱・開催した。この会議によって構築された「ワシントン体制」のもとで、東アジアの平和と秩序が再編されることとなる。
ワシントン会議において、中国の主権尊重と門戸開放を明文化した九カ国条約が締結された。これに伴い、特定の国(日本)による中国での「特殊の利益」を認める石井・ランシング協定はその存在意義を失い、1923年に正式に廃棄された。ランシングが残した外交的妥協の遺産は、戦後のアメリカが主導する国際協調主義のなかで解消され、日米関係は再び対立の時代へと向かっていくこととなった。