源高明 (みなもとのたかあきら)
【概説】
平安時代中期の公卿であり、醍醐天皇の第十皇子。臣籍降下して源氏(醍醐源氏)を名乗り、学識と実務能力で左大臣にまで昇進したが、藤原氏の陰謀による「安和の変」で失脚し、大宰府へと左遷された人物。
宮廷での台頭と「西宮記」の編纂
源高明は、醍醐天皇の皇子として生まれながらも臣籍に下り、源朝臣の姓を与えられた。当時の宮廷社会において、高明は卓越した政治的手腕と深い学識を持つ知識人として知られていた。特に朝廷の儀式や先例に関する学問である有職故実(ゆうそくこじつ)に精通しており、彼が執筆した『西宮記(さいきゅうき)』は、平安中期の朝廷儀式を記録した極めて重要な歴史的史料として後世に重んじられた。
高明は、当時の摂関家で実力を振るっていた右大臣・藤原師輔(もろすけ)の娘を妻に迎えたことで、藤原氏主流派との良好な関係を構築した。これにより宮廷内での出世を順調に重ね、ついには官職の最高峰に近い左大臣にまで登り詰めた。その高い能力と血統、そして藤原氏との結びつきは、高明を宮廷の最有力者に押し上げた。
安和の変と他氏排斥の完成
しかし、960年に後ろ盾であった藤原師輔が急死したことで、高明の立場は一転して不安定なものとなる。さらに、冷泉天皇の即位に伴って皇太子(東宮)を決める際、高明の娘が嫁いでいた為平親王(ためひらしんのう)ではなく、藤原氏の血を引く守平親王(後の円融天皇)が東宮に立てられた。これは、高明が将来の天皇の外戚として権力を握ることを、藤原氏の主流派(師輔の兄である藤原実頼ら)が極度に警戒したためであった。
そして969年(安和2年)、橘繁延らが為平親王を擁立して謀反を企てているという密告があり、高明はその首謀者として不条理な罪を問われることとなった。この「安和の変」によって、高明は左大臣の職を解かれ、大宰権帥(だざいのごんのそち)として大宰府へ実質的な流罪に処された。のちに罪を許されて帰京したが、政界に復帰することはなかった。この事件は、承和の変から始まった藤原氏による他氏排斥運動の最後を飾る画期となり、これ以後、藤原氏による摂関政治の支配体制が盤石なものとなった。