石井・ランシング協定
【概説】
1917年(大正6年)、日本の特派大使石井菊次郎とアメリカ国務長官ロバート=ランシングとの間で交わされた、中国問題に関する日米間の取り決め。日本の中国における「特殊の利益」の承認と、アメリカが主張する中国の「領土保全」「門戸開放」「機会均等」を日米両国が共同で確認した。
第一次世界大戦と日米関係の緊張
1914年(大正3年)に第一次世界大戦が勃発すると、ヨーロッパ列強の関心がアジアから離れた隙を突き、日本は中国大陸への勢力拡大を積極的に図った。日本は日英同盟を口実にドイツに宣戦布告し、ドイツが権益を持っていた中国の山東省青島などを占領した。さらに翌1915年、袁世凱政府に対して二十一カ条の要求を突きつけ、山東省におけるドイツ権益の継承や、南満州・東部内蒙古における日本の優越的な地位を認めさせた。
このような日本のあからさまな中国進出に対し、いち早く警戒感を示したのがアメリカであった。アメリカは19世紀末のジョン=ヘイ国務長官による宣言以来、中国に対する「門戸開放」「機会均等」「領土保全」を極東政策の基本原則(国是)としていた。そのため、日本の独占的な権益拡大はアメリカの国益と真っ向から衝突するものであり、日米間の緊張は急速に高まっていった。
「玉虫色」の妥協による協定成立
1917年、アメリカが第一次世界大戦に連合国側として参戦すると、日米両国は「同盟国」として協調姿勢を演出する必要に迫られた。また、同年にはロシア革命が勃発し、極東情勢が流動化する中での両国の意見調整も急務となっていた。そこで日本政府は前外務大臣の石井菊次郎を特派大使としてワシントンに派遣し、アメリカのランシング国務長官との間で会談を行わせた。
同年11月、両名による公文交換という形で石井・ランシング協定が成立した。その内容は、領土が隣接する国同士には特殊な関係が生じるという「地理的近接性」を理由に、アメリカが日本の中国(特に満州)における「特殊の利益(special interests)」を承認する一方で、日本もアメリカが提唱する中国の「独立・領土保全」と「門戸開放・機会均等」の原則を尊重するというものであった。
しかし、この協定は明らかな妥協の産物であった。日本側はアメリカが認めた「特殊の利益」を、政治的・軍事的な優越権を含むものとして都合よく拡大解釈した。対するアメリカ側は、それは単なる経済的な結びつきを指すものに過ぎないと見なしており、両国の根本的な対立が真に解消されたわけではなかった。この意図的な解釈の余地を残した「玉虫色の決着」が、本協定の最大の特徴である。
協定の歴史的意義とワシントン体制への移行
石井・ランシング協定の締結により、日米間の対立は一時的に緩和され、大戦中の連合国としての足並みを揃えることには成功した。日本はこの協定を盾に取り、1919年のパリ講和会議において、自国の中国における権益や行動を正当化する論拠として大いに利用した。
だが、第一次世界大戦が終結し、国際連盟を中心とする新しい国際秩序が模索されるようになると、日米の摩擦は再び表面化した。1921年から1922年にかけて、アメリカの主導でワシントン会議が開催され、軍縮とともに太平洋・極東問題が討議された。この会議において、中国の主権尊重と門戸開放・機会均等を多国間で確認する九カ国条約が締結された。
九カ国条約の成立による「ワシントン体制」の構築は、事実上、日本一国に中国での特殊権益を認めた石井・ランシング協定と矛盾するものであった。新たな多国間協調体制がアジア太平洋の秩序として定着した結果、本協定はその歴史的役割を終え、翌1923年(大正12年)4月、日米両国の合意により正式に廃棄されることとなった。