ロシア革命
【概説】
1917年にロシアで勃発し、ロマノフ王朝の打倒から世界初の社会主義政権樹立へと至った一連の革命。第一次世界大戦中の大日本帝国に深刻な衝撃を与え、シベリア出兵や米騒動の引き金となったほか、国内の社会主義・共産主義運動を急激に活性化させるなど、大正時代の日本社会に多大な影響を及ぼした。
二つの革命と社会主義政権の誕生
1917年、第一次世界大戦の長期化による深刻な生活苦や専制政治への不満から、首都ペトログラードで労働者や兵士による大規模な暴動が発生した。これにより皇帝ニコライ2世は退位を余儀なくされ、長らく続いたロマノフ王朝は崩壊した(二月革命)。その後、資本家を中心とする臨時政府と、労働者・兵士の評議会であるソヴィエトとの二重権力状態が続いたが、同年秋にレーニン率いるボリシェヴィキ(後の共産党)が武装蜂起を行い、臨時政府を打倒して権力を掌握した(十月革命)。これにより、世界初の社会主義政権が誕生し、後のソヴィエト連邦建国へと繋がっていく。この未曾有の事態は、隣国である日本を含む世界の資本主義列強に大きな脅威を与えた。
日本の対応とシベリア干渉戦争
ロシアでの社会主義政権樹立は、天皇を頂点とする大日本帝国にとって、国体(天皇制)を根底から揺るがしかねない重大な危機と受け止められた。さらに、革命政権が連合国を離脱してドイツと単独講和を結んだことは、大戦の戦局にも多大な影響を及ぼした。これに対し、日本、イギリス、アメリカ、フランスなどの連合国は、チェコ軍団の救出などを名目にロシアへの武力干渉を決定した。日本でも1918(大正7)年、寺内正毅内閣がシベリア出兵を断行し、数万の軍隊をウラジオストクなどに派遣した。しかし、干渉戦争は現地のパルチザン(非正規軍)の激しい抵抗に遭って泥沼化し、他国が早々に撤兵するなかで日本だけが1922(大正11)年まで駐留を続けた。結果として、多大な人命と戦費を費やしたにもかかわらず、日本の軍事介入は無残な失敗に終わることとなった。
米騒動の勃発と国内政治の転換
ロシア革命に端を発するシベリア出兵は、日本の国内社会にも直ちに見過ごせない影響をもたらした。出兵を見越した米穀商や地主による米の買い占め・売り惜しみが発生し、米価が異常高騰したのである。1918年夏、富山県の漁村の主婦たちによる米の県外移出阻止運動を皮切りに、全国各地で打ちこわしや暴動が連鎖的に発生した(米騒動)。この事態を警察力だけで鎮圧できなかった寺内正毅内閣は軍隊を出動させて騒ぎを鎮めたものの、国民の激しい非難を浴びて総辞職に追い込まれた。その結果、立憲政友会の原敬が首相に任命され、日本初の本格的な政党内閣が誕生することとなり、ロシア革命は間接的に日本の「大正デモクラシー」の進展を決定づける要因の一つとなった。
社会主義運動の激化と治安維持法への道
ロシア革命の成功は、日本の労働者や知識人にも計り知れない思想的衝撃を与えた。第一次世界大戦後の反動不況や労働争議の激化も相まって、マルクス主義などの社会主義思想が急速に若者や知識階級の間に浸透していった。1922(大正11)年には、国際共産主義運動の指導組織であるコミンテルンの日本支部として、非合法下に日本共産党(第一次)が結成された。政府はこうした社会主義・共産主義運動の広がりを「国体の危機」として強く警戒し、1925(大正14)年の日ソ基本条約によるソ連との国交樹立および普通選挙法の制定に合わせる形で、国体変革や私有財産制度の否認を目的とする結社を厳罰に処す治安維持法を制定した。このように、ロシア革命は世界の歴史を変えただけでなく、日本の近現代史においても、対外政策から国内の社会構造、そして思想統制に至るまで、極めて広範で後戻りできない変化をもたらした歴史的分水嶺であった。