黒田清隆 (くろだきよたか)
【概説】
薩摩藩出身の幕末・明治期の軍人、政治家。北海道開拓使の長官として近代化を強力に推進し、のちに第2代内閣総理大臣を務めた明治政府の重鎮。開拓使官有物払下げ事件や、大日本帝国憲法発布直後の「超然演説」でも知られる。
北海道開拓使と近代化の推進
黒田清隆は幕末、薩摩藩士として薩長同盟の仲介や戊辰戦争の終結(箱館戦争での榎本武揚らの助命など)に尽力した。明治維新後は、ロシアの南下政策(南下策)に対抗して北方防衛と開発を急ぐため、新設された開拓使の次官、のちに長官に就任した。黒田はアメリカの農務長官であったケプロンを農道・工業の顧問として招聘し、近代的な農業技術や産業の導入を図った。また、札幌農学校(現在の北海道大学)の設立や、士族授産と北方警備を兼ねた屯田兵制度の創設など、現在の北海道の基盤となる政策を次々と実行に移した。
開拓使官有物払下げ事件と明治十四年の政変
1881年(明治14年)、開拓使の10年計画が終了を迎えるにあたり、黒田は多額の国費を投じて建設した工場や鉱山などの官有物を、同郷の政商である五代友厚らの関西貿易商会に不当に安い価格・かつ長期無利息の条件で払い下げようとした。これが新聞に漏洩すると、薩長藩閥による特権の独占であるとして世論の激しい非難を浴びることとなった(開拓使官有物払下げ事件)。政府は世論を鎮静化させるため、この払下げを中止するとともに、政府内で早期の国会開設を主張していた大隈重信を罷免し、10年後の国会開設を約束する「国会開設の詔」を出した。これが日本近代政治史の転換点となった明治十四年の政変である。
第2代内閣総理大臣就任と「超然主義」
1888年、伊藤博文の後を継いで第2代内閣総理大臣に就任した。黒田内閣の在任中である1889年2月11日、大日本帝国憲法が発布された。その翌日、黒田は地方官官舎で催された昼食会において、政府は政党の動向に左右されることなく、常に公平・中立な立場から独自の政策を行うべきであるという、いわゆる超然主義(超然演説)を表明した。これは、民権派や政党の台頭を強く牽制し、天皇主権のもとで藩閥政府の主導権を維持しようとする姿勢を鮮明にしたものであった。その後、大隈重信外相が進めていた条約改正交渉が内紛と大隈への爆弾テロ事件により頓挫し、黒田内閣は総辞職に追い込まれたが、黒田は退任後も「元老」の一人として国政に影響力を持ち続けた。