開拓長官 (かいたくちょうかん)
1869〜1882年
【概説】
明治時代初期に北海道の開拓と防備を担った官庁「開拓使」の最高責任者。地方官でありながら中央省庁の長官(卿)と同等の強大な権限を有し、国策としての北方開発を主導した。
開拓使の設置と長官への権限集中
明治政府は1869年(明治2年)、ロシアに対する北方防備の強化と資源開発、および旧幕臣などの授産を目的として開拓使を設置した。この開拓使のトップとして置かれたのが開拓長官(当初は「長官(かみ)」、のちに「長官(ちょうかん)」)である。初代長官には佐賀藩主であった鍋島直正が任命されたが実務には就かず、東久世通禧らが務めた後、次官として実質的に開拓使を率いていた薩摩藩出身の黒田清隆が1874年(明治7年)に第3代長官に就任した。開拓長官は中央の省と同格の強い権限を与えられており、広大な北海道の行政・防備のみならず、巨額の国家予算を独自の判断で執行することが認められていた。
北方開拓の進展と「明治十四年の政変」への影響
開拓長官となった黒田清隆は、アメリカの農務長官であったケプロンをお雇い外国人として招聘し、近代的な農業や産業の育成、札幌学校(のちの東北帝国大学農科大学、現・北海道大学)の設立などを強力に推進した。しかし、10年間におよぶ「開拓使十年計画」の満期を迎えるにあたり、1881年(明治14年)、黒田は多額の国費を投じて建設した官営工場や鉱山などの官有物を、同郷の政商である五代友厚らに格安で払い下げようとした。この計画が新聞報道などによって露見すると、政府への激しい世論批判が沸き起こり、大隈重信の追放や国会開設の勅諭へとつながる明治十四年の政変を引き起こした。払い下げは中止され、翌1882年に開拓使が廃止されたことで、開拓長官の官職も消滅した。