オペラ『蝶々夫人』 (ちょうちょうふじん)
【概説】
イタリアの作曲家プッチーニが作曲した、明治時代の長崎を舞台とする西洋の代表的な歌劇。アメリカ海軍士官と日本人女性の悲恋を描き、近代ヨーロッパにおけるジャポニスムの流行を象徴する作品である。日本では大正期以降、ソプラノ歌手の三浦環がヒロインを当たり役として世界的に活躍したことで知られる。
オリエンタリズムと『蝶々夫人』の誕生
明治維新を経て日本が開国し、国際社会に登場すると、19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパでは日本文化への関心、いわゆるジャポニスム(日本趣味)が全盛期を迎えた。西洋人の目から見た神秘的でエキゾチックな東洋のイメージ(オリエンタリズム)を背景に、アメリカの小説や戯曲を原作として、イタリアの偉大な歌劇作曲家ジャコモ・プッチーニがオペラ化を手がけたのが本作である。
1904年にミラノのスカラ座で初演されたこの作品は、日本の伝統的な旋律(「君が代」や「さくらさくら」、「お江戸日本橋」など)が随所に取り入れられており、西洋音楽の技法と日本の情緒が融合した傑作として、世界各地でたちまち人気演目となった。しかし、当時の西洋人が抱いた日本像にはステレオタイプや誤解も多く含まれており、本作は近代の東西文化接触における非対称なまなざしを示す史料としても評価されている。
世界的プリマドンナ・三浦環の活躍と文化的意義
大正期から昭和初期にかけて、この『蝶々夫人』を自らの「当たり役」として世界に知らしめたのが、日本のソプラノ歌手・三浦環(みうらたまき)であった。東京音楽学校(現・東京藝術大学)で学んだ三浦は、1915年にロンドンで『蝶々夫人』の主役を演じて大成功を収め、その後、アメリカやヨーロッパ各地の主要な歌劇場で同役を2000回以上にわたって演じ続けた。
作曲者のプッチーニ自身からも「私の夢見た通りの素晴らしい蝶々夫人だ」と絶賛された彼女の活躍は、単に一個人の成功にとどまらない。それは、明治以降の日本が急速に進めてきた西洋音楽の受容(洋楽受容)が、本場ヨーロッパにおいて超一流の芸術として認知される段階に達したことを示す、近代日本文化史における記念碑的な出来事であった。