律令制
【概説】
中国の隋・唐で完成した、刑罰法規である「律」と行政・民事法規である「令」を基本法とする中央集権的な国家体制。日本では飛鳥時代後半から導入が本格化し、天皇を頂点とする官僚制と人民支配の枠組みとして確立された。古代日本における国家形成の根幹をなし、その後の政治制度の原点となった最重要の制度である。
東アジアにおける律令制の誕生
「律令」という概念は、古代中国に起源を持つ。「律」とは現代でいう刑法にあたり、犯罪に対する刑罰を定めた禁圧規範である。一方の「令」は、行政法や民事法、訴訟法などを網羅した国家の組織や運営に関する規定である。これらは漢代から徐々に整備され、魏晋南北朝時代を経て、7世紀の唐代に完成を見た。唐の律令制は、均田制による土地支配や租庸調制による税制、府兵制による軍事力を基盤とし、皇帝を頂点とする精緻な中央集権体制を構築した。この唐の強大な国力と高度な法体系は、朝鮮半島の新羅や日本など、周辺の東アジア諸国に多大な影響を与え、各国の国家形成におけるモデルとなったのである。
日本における律令の編纂と導入過程
日本における律令制の導入は、7世紀中葉の大化の改新に端を発する。当時、東アジアでは唐が勢力を拡大し、朝鮮半島情勢が緊迫化していた。これに危機感を抱いた中大兄皇子(後の天智天皇)らは、豪族による連合政権的なヤマト王権を脱し、強力な権力を持つ中央集権国家の建設を目指した。668年に制定されたとされる近江令が日本初の法令と言われるが、その存在には諸説ある。その後、689年に持統天皇の下で飛鳥浄御原令が施行され、戸籍(庚寅年籍)の作成など律令国家の基礎が固められた。そして701年(大宝元年)、刑法と行政法の両方を備えた初の本格的な律令である大宝律令が制定されたことで、日本の律令制は法的に完成を見た。さらに718年(養老2年)には、これを改訂した養老律令が編纂されている。
二官八省と天皇を中心とする支配構造
日本の律令国家の中央官制は、神々への祭祀を司る神祇官と、国政を統括する太政官からなる「二官八省」制を特徴とした。これは唐の制度(三省六部制)をモデルとしつつも、日本独自の改変が加えられたものである。特に神祇官が太政官と並立する独立した機関とされた点は、天皇が神話的な血統(万世一系)を根拠とする祭祀王としての性格を強く帯びていたことを示している。唐の皇帝が天命によって交代し得る(易姓革命)存在であったのに対し、日本では天皇の血統的権威が絶対視され、神道的な祭祀が国家運営の根幹に据えられたのである。また、官僚機構においては、唐の科挙のような実力主義の登用制度は根付かず、高位の貴族の子弟が自動的に官位を得る蔭位の制が広く適用されるなど、旧来の氏姓制度に基づく貴族の世襲的な特権が温存された。
公地公民と人民支配の枠組み
律令制の経済的・軍事的基盤となったのは、土地と人民を国家が直接支配する公地公民制の理念である。国家は全人民を戸籍や計帳に登録して把握し、6歳以上の男女に対して班田収授法を実施して口分田を支給した。この土地支給の見返りとして、人民には収穫物の一部を納める「租」、布や特産品を納める「庸・調」、さらには国司の下で働く「雑徭」といった重い税が課せられた。加えて、軍団に徴発されて軍務に就く兵役の義務(衛士・防人など)も課せられ、農民の負担は極めて過酷なものであった。律令国家は、こうした個別の人身支配を通じて、巨大な都城(藤原京・平城京など)の建設や国家行事の運営に必要な財源と労働力を調達していたのである。
律令国家の変容と歴史的意義
精緻に組み上げられた律令制であったが、8世紀後半に入ると早くも矛盾が露呈し始める。過酷な負担から逃れるための農民の逃亡や偽籍が相次ぎ、戸籍に基づく個別支配や班田収授の維持が困難となった。これに対し政府は、三世一身法や墾田永年私財法(743年)を発布して土地の私有を認め、農地拡大を図ったが、これは結果的に公地公民制という律令制の根幹を崩壊させ、貴族や寺社による荘園(初期荘園)の形成を促した。10世紀には、戸籍を通じた人民支配を事実上放棄し、有力な農民(田堵)に一定の農地の耕作と納税を請け負わせる体制(王朝国家体制)へと大きく転換した。しかし、社会の実態が変化しても、太政官や国司といった律令制由来の官職や制度的枠組みは、支配層の権威の源泉として明治維新に至るまで形骸化しつつも存続し続けた。律令制は、日本の歴史において初めて法治に基づく「国家」という枠組みを形作り、後世の政治文化に消えない刻印を残したのである。