重要度
★★★

618年〜907年

【概説】
隋の滅亡後に中国大陸を統一し、高度な律令制を完成させて東アジア全域に君臨した大帝国。古代日本は飛鳥時代から平安時代にかけて遣唐使を派遣し、唐の政治制度や文化を国家建設の絶対的なモデルとして積極的に受容した。

東アジアの覇者と律令体制の完成

618年、李淵(高祖)によって建国された唐は、短命に終わった隋の制度を引き継ぎつつ、第2代太宗(李世民)の時代に強力な中央集権体制を確立した。その統治の根幹をなしたのが、刑法である「律」と行政法である「令」を基本とする律令制である。唐は国家が人民に土地を割り当てる均田制、それに基づく税制である租庸調制、そして兵役を課す府兵制を連動させ、農民を直接支配する強固な国家基盤を築き上げた。

さらに、圧倒的な軍事力と経済力を背景に、周辺諸国と朝貢・冊封関係を結んで東アジアに巨大な国際秩序(華夷秩序)を形成した。この唐の繁栄と精緻にシステム化された国家体制は、周辺諸国にとって自国を近代化するための手本とも言える存在となった。

白村江の戦いと日本の国防危機

日本(当時の倭国)が初めて唐へ使節を派遣したのは、飛鳥時代の630年(第1回遣唐使・犬上御田鍬)である。しかし、当時の東アジア情勢は緊迫していた。朝鮮半島では唐と新羅の連合軍が660年に百済を滅ぼし、百済復興を支援すべく海を渡った日本軍は、663年の白村江の戦いで唐・新羅の圧倒的な水軍の前に大敗を喫した。

この敗戦は、日本国内に「巨大帝国である唐が海を越えて攻めてくるかもしれない」という未曾有の国防危機をもたらした。天智天皇は水城や大野城を築き、防人を配置して西日本の防衛を固めると同時に、強大な唐に対抗し得る強力な国家を作る必要性を痛感した。唐との激突による敗北の恐怖が、近江大津宮への遷都や日本初の全国的な戸籍(庚午年籍)の作成など、日本における急速な中央集権化の強力な原動力となったのである。

遣唐使による制度・文化の積極的受容

白村江の戦い以降、日本は唐との関係修復を図り、律令国家建設のノウハウを直接学ぶために遣唐使の派遣を本格化させた。およそ20年に1度のペースで危険な航海に挑んだ使節団には、吉備真備や阿倍仲麻呂といった留学生、玄昉や空海などの学問僧が多数同行した。

彼らが持ち帰った最新の知識により、日本では701年の大宝律令の制定をはじめとして、本格的な国家体制の整備が進んだ。また、710年に造営された平城京や794年の平安京は、唐の都である長安をモデルとした条坊制が採用された。文化面でも、シルクロードを経由したペルシアやインドなどの国際色豊かな要素がもたらされ、聖武天皇の時代には華やかな天平文化が開花した。唐の高僧である鑑真が度重なる遭難の末に来日し、日本に正式な戒律を伝えたのもこの時代である。

唐の衰退と日本独自の国風文化へ

しかし、8世紀半ばに起きた安史の乱を契機として、唐は均田制や府兵制といった国家の屋台骨が崩れ、次第に衰退の道を歩み始めた。地方の節度使(藩鎮)が台頭し、国内情勢が不安定化する中、遣唐使の渡海には多大な危険と費用が伴うようになっていた。

こうした状況下で、894年に菅原道真の建議により遣唐使の派遣が停止(事実上の廃止)された。そして907年、朱全忠によって唐は滅亡を迎える。長く東アジアの圧倒的な手本であった唐の消滅と使節の途絶は、日本が大陸文化の直接的な模倣から脱却する契機となった。これ以降、平安時代の日本は、唐から吸収した要素を咀嚼し、日本の風土や生活様式に合わせた独自の国風文化(仮名文字の発達や和様彫刻など)を成熟させていくこととなる。

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