太政官(明治時代) (だいじょうかん/だじょうかん)
【概説】
1868年(慶応4年)の政体書によって設置され、1885年(明治18年)の内閣制度創設まで存続した明治初期の最高行政機関。古代律令制の名称を復活させて王政復古の理念を掲げつつも、西洋の近代的な統治システムを模索しながら幾度もの改組を繰り返した。廃藩置県や富国強兵などの近代化政策を推進し、立憲国家へと至る過渡期の政府として重要な役割を担った。
王政復古の理念と政体書による太政官の成立
明治維新直後の1867年末、王政復古の大号令によって江戸幕府が倒されると、新政府は総裁・議定・参与の三職からなる仮の統治機構を発足させた。しかし、戊辰戦争を戦い抜き近代国家としての体裁を整えるため、翌1868年(慶応4年)に政体書を布告して新たな政府組織を構成した。このとき、国家権力のすべてを統括する最高機関として設置されたのが太政官である。
この名称は、天皇を中心とした古代律令制における最高行政機関の呼称をそのまま復活させたものであった。これには、幕府による武家政治を否定し「天皇親政」という王政復古のイデオロギーを強調することで、新政府の権威を国内の諸藩や民衆に対して強くアピールする意図があった。
権力の集中と三院制の確立
初期の政体書体制における太政官は、アメリカの制度を参考に立法・行政・司法の三権分立を形式的に取り入れていた。しかし、1871年(明治4年)に中央集権化の決定打となる廃藩置県を断行するにあたり、政府機構のさらなる権力強化と意思決定の迅速化が求められた。
これにより導入されたのが、正院(せいいん)・左院(さいん)・右院(ういん)からなる三院制の太政官である。太政大臣・左大臣・右大臣や参議から構成される正院が最高意思決定機関として強大な権力を握り、主に薩摩・長州・土佐・肥前(薩長土肥)出身の有力者たちによる官僚主導の専制政治、いわゆる「有司専制(ゆうしせんせい)」がここに確立していった。
内閣制度の創設と過渡期統治機構の終焉
太政官体制のもとで、明治新政府は学制・徴兵令・地租改正といった三大建白をはじめ、殖産興業や富国強兵などの急進的な近代化政策を次々と推し進めた。日本の近代化はこの太政官の強力な主導権の下で軌道に乗ったと言える。
しかし、1870年代後半から自由民権運動が激化し、国会の開設や憲法の制定を求める声が全国的に高まると、前近代的な色彩を残す太政官制では対応が困難となっていった。1881年(明治14年)に「国会開設の勅諭」が出され、立憲体制への移行が決定すると、議院内閣制を視野に入れた近代的な行政機構の整備が急務となった。こうして1885年(明治18年)、伊藤博文らの主導によって太政官は廃止され、新たに内閣制度が創設された。近代国家黎明期の試行錯誤を支えた過渡期的な統治機構は、その役目を静かに終えたのである。