有司専制 (ゆうしせんせい)
【概説】
明治初期において、薩摩・長州・土佐・肥前(薩長土肥)の藩閥出身の官僚(有司)が権力を独占し、世論を無視して合議を経ずに進めた専制的な政治体制。また、これを批判するために自由民権派が使用した政治的スローガン。
藩閥政府の形成と「有司」の実態
明治維新によって江戸幕府が崩壊したのち、新政府の実権は旧幕府勢力や公家ではなく、維新の原動力となった薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩(薩長土肥)の出身者たちによって握られた。特に1873年(明治6年)の明治六年政変(征韓論争に敗れた板垣退助や西郷隆盛らの下野)以降、内務省を中心として権力を掌握した大久保利通らのもとで官僚機構の整備が進み、一部の特定藩出身者が要職を独占する「藩閥政府」が確立された。自由民権派や社会世論は、これら政府の特権的官僚を「有司(官吏・役人の意)」と呼び、彼らが議会も開設せず、国民の声を反映させずに政策を決定する政治手法を「有司専制」と激しく糾弾した。
民選議院設立の建白書と「有司専制」批判の思想
「有司専制」という言葉が政治的に広く認知される決定打となったのが、1874年(明治7年)1月に板垣退助や後藤象二郎、江藤新平らが左院に提出した民選議院設立の建白書である。その冒頭において、「現今政権の帰する所を察するに、上(かみ)帝王に在らず、下(しも)人民に在らず、独(ひとり)有司に帰す」と喝破し、主権が天皇にも人民にもなく、一部の官僚に独占されている現状を強く批判した。この建白書の提出は、日本における自由民権運動の事実上の出発点となり、「有司専制の打破」と「国会の開設(民選議院の設立)」は、運動の核心的な要求として位置づけられることとなった。
自由民権運動への発展と立憲体制への移行
有司専制への批判は、知識人や不平士族の間にとどまらず、やがて富農や豪農などの地方有力層にも広がり、全国的な自由民権運動へと発展した。政府は新聞紙条例や集会条例などの言論弾圧によって抗争を図ったが、激化する自由民権運動と高まる公議世論を前に、専制体制を維持し続けることは不可能となった。その結果、1881年(明治14年)の国会開設の勅諭によって10年後の国会開設が約束され、1889年の大日本帝国憲法発布、および1890年の帝国議会開設へと至る、立憲君主制(近代国家体制)への移行が促されることとなった。