太政官三院制(三院制)

廃藩置県後の官制改革で確立した、太政官の下に正院・左院・右院を置く政治機構を何というか?
カテゴリ:
重要度
★★★

【参考リンク】
太政官(Wikipedia)

太政官三院制(三院制) (だじょうかんさんいんせい)

1871年〜1875年

【概説】
廃藩置県直後の1871年(明治4年)に導入された、最高行政機関である太政官を「正院・左院・右院」の3つに分割した政治体制。薩長土肥出身の維新の有力者が国政を主導する藩閥政治の基礎が築かれ、近代的な国家機構の形成過程において重要な過渡期となった。

廃藩置県と中央集権体制の確立

1871年(明治4年)7月、明治政府は廃藩置県を断行し、全国を直接支配下におく強力な中央集権体制を成立させた。この大改革を機に、政府は天皇を頂点とする近代的な国家機構の整備を急務とした。同年8月(旧暦7月)、それまでの二官六省制(神祇官・太政官)を改め、新たに太政官職制を制定した。これが太政官三院制である。この制度改革の主な目的は、政府中枢の権限を明確化し、新政府の政治基盤を磐石なものにすることにあった。

正院・左院・右院の役割と構造

新制度では、太政官を正院(せいいん)左院(さいん)右院(ういん)の三院に分割し、それぞれの役割を明確化した。

正院は国政の最高意思決定機関であり、太政大臣、左大臣、右大臣、および参議によって構成された。天皇を補佐し、国家の重要事項をすべて裁決する絶大な権限を持っていた。左院は、従来の集議院に代わって設置された立法・諮問機関であり、法案の審議や建白書の処理を行った。右院は、各省の長官(卿)と次官(大輔)からなる合議機関であり、正院の決定に基づいて各省の行政事務の連絡調整や法案の起草を担った。

参議の台頭と藩閥政治の形成

三院制の最大の歴史的意義は、国政の決定権を持つ「参議」と、実際の行政事務を統括する各省の「卿」を分離し、正院の優位を確立した点にある。正院の構成員である参議には、西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通、板垣退助など、薩摩・長州・土佐・肥前出身の維新の元勲たちが就任した。彼らが正院において強力な指導力を発揮し、右院(各省)の頭越しに政策を決定したことで、少数の実力者による藩閥政治(有司専制)の骨格が形成された。

また、この改革に伴って神祇官が神祇省へと格下げされ、太政官の下位に置かれた。これにより、明治維新直後に掲げられた「祭政一致」の理念から、近代的な世俗政府への転換が図られた点も重要である。

三院制の解体と立憲体制への過渡期

三院制導入直後の1871年末、大久保利通や木戸孝允らは岩倉使節団として外遊し、国内は西郷隆盛らの留守政府が担うことになった。しかし、1873年(明治6年)の明治六年の政変(征韓論争)によって政府は分裂し、三院制の運用も大きな転機を迎える。政変後に実権を掌握した大久保は、新たに内務省を設置して自ら内務卿に就任した。大久保が参議と卿を兼任したことで、政策決定と行政執行が一体化し、大久保を中心とする強力な独裁体制が築かれた。

その後、自由民権運動の高まりを受けた1875年(明治8年)の大阪会議を経て、漸次立憲政体樹立の詔が発布された。これに伴う官制改革で、立法府として元老院、司法府として大審院が新設され、左院・右院は廃止された。残された正院も1877年(明治10年)に廃止され、太政官三院制は事実上終焉を迎えた。三院制のもとでの試行錯誤は、三権分立の模索や、1885年(明治18年)の内閣制度創設へとつながる重要な歴史的ステップであった。

維新の構想と展開 日本の歴史20 (講談社学術文庫 1920 日本の歴史 20)

明治維新の多面的な構造を精緻に解き明かし、その歴史的変容と政治的ダイナミズムを再構築する壮大な通史の到達点。

日本の近代とは何であったか――問題史的考察 (岩波新書)

近代日本が直面した諸課題を構造的に解剖し、現代に通じる歴史の深層と国家の在り方を問い直す鋭い問題提起の書。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. 律令制の七道の中で唯一の「大路」とされ、畿内から瀬戸内海側を通って大宰府(九州)へと向かう行政区分(道)は何か?
Q. 漁の途中で遭難し、アメリカの捕鯨船に救助されて渡米し、帰国後は幕府の通訳などとして活躍した人物は誰か?
Q. 名主などの家に隷属し、売買の対象にもなるなど独立した生活を営めなかった隷属民を何というか。