三職

王政復古の大号令により、これまでの摂政や関白を廃止して新たに設けられた、総裁・議定・参与の3つの役職を総称して何というか?
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三職

1867年〜1868年

【概説】
1867年(慶応3年)の王政復古の大号令に伴い、旧来の幕府や摂政・関白を廃止して新たに設置された明治新政府の最高首脳陣。総裁・議定・参与の三役から構成される。公卿や有力諸侯だけでなく、実力ある下級武士も国政に参画させる画期的な合議体制であったが、翌年の政体書発布により太政官制へと移行した。

王政復古の大号令と新体制の樹立

1867年(慶応3年)10月、徳川慶喜による大政奉還が行われ、形式上の政権は朝廷に返上された。しかし、依然として徳川家が巨大な権力と領地を保持しており、実質的な主導権を握り続ける可能性が高かった。これに対し、薩摩藩・長州藩を中心とする討幕派と岩倉具視ら一部の公家は、徳川氏を完全に排除した新政権の樹立を画策した。

同年12月9日、朝廷は王政復古の大号令を発布した。これにより、江戸幕府の廃止のみならず、朝廷の伝統的な最高職である摂政や関白なども廃止され、天皇親政に基づく全く新しい政府の創設が宣言された。この新政府の最高首脳陣として新たに設置されたのが、総裁(そうさい)・議定(ぎじょう)・参与(さんよ)からなる三職である。

三職の構成と実力主義の導入

三職の設置は、身分制にとらわれない新政府の人材登用を示す画期的な制度であった。

最高責任者である総裁には、皇族の有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)が就任した。天皇を補佐し、政府を統括する象徴的かつ権威的な役割を担った。

次に、合議によって国政を決定する議定には、皇族や有力公家のほか、薩摩・土佐・尾張・越前・安芸などの有力諸侯(大名)が任命された。これは当時の有力な政治思想であった「公議政体論」(諸侯による合議制)を色濃く反映したものである。

そして、実務を担う参与には、一部の公家や諸侯のほか、西郷隆盛・大久保利通(薩摩)、木戸孝允(長州)、後藤象二郎(土佐)、由利公正(越前)など、各藩の実力ある下級武士(藩士)が抜擢された。旧体制では国政の中枢に参加することなど到底不可能であった階層の者たちが、新政府の意思決定プロセスに直接関与できるようになった点に、三職制の最大の歴史的意義がある。

小御所会議における機能と慶喜の排除

三職が設置された当日の夜、明治天皇臨席のもとで初めての三職会議である小御所会議(こごしょかいぎ)が開かれた。この会議では、徳川慶喜の処遇を巡って激しい議論が交わされた。

議定として参加していた前土佐藩主・山内豊信(容堂)らが慶喜の会議への出席と寛大な処置を求めたのに対し、討幕派の参与である岩倉具視や大久保利通らが強硬に反対した。結果として討幕派の主張が通り、慶喜に対して辞官納地(内大臣の辞任と徳川家領地の朝廷への返還)を命じることが決定された。この会議は、三職という新たな合議体制のもとで、下級武士や討幕派公家の発言力が有力諸侯を圧倒した瞬間であり、その後の戊辰戦争(旧幕府軍と新政府軍の武力衝突)へと繋がる決定的な転換点となった。

行政機構の拡充と政体書による廃止

王政復古直後の新政府は三職の合議によるシンプルな構成であったが、戊辰戦争の遂行や外交、内政など処理すべき課題が急増すると、より体系的な行政機構が必要となった。1868年初頭には、三職の下に神祇・内国・外国・海陸軍・算用・刑法・制度の「七科(のちに八局)」が置かれ、行政事務の分担が図られた。

その後、同年閏4月に政体書が発布され、アメリカ合衆国憲法を参考にした三権分立的な新しい太政官制が発足した。これに伴い、約半年間機能した三職は発展的に解消された。三職は極めて短命な制度であったが、数百年に及んだ武家政権と朝廷の旧体制を打破し、近代的な官僚機構へ移行するための重要な過渡的役割を果たしたのである。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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