天賦人権説(天賦人権論) (てんぷじんけんせつ(てんぷじんけんろん)
【概説】
「人間は生まれながらにして自由平等の権利を持つ」という、西洋由来の近代的な自然権思想。
明治時代初期に日本へ移入されて封建的身分制を打破する理論として広く受容された。
特に自由民権運動の強力な理論的支柱となり、国会開設や憲法制定を求める人々の原動力となった。
西洋からの移入と初期の啓蒙活動
天賦人権説(自然権思想)は、17世紀から18世紀にかけてのヨーロッパにおける市民革命期に、ジョン・ロックやジャン=ジャック・ルソーらによって構築された政治思想である。日本には幕末から明治初期にかけて移入され、文明開化の波に乗って知識人たちに広く受容された。
その先駆けとなったのが、福沢諭吉の著書『学問のすゝめ』(1872年)の冒頭の一節「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」である。また、明六社のメンバーであった加藤弘之も初期には『真政大意』や『国体新論』を著し、天賦人権論の立場から日本の封建的因習や専制政治を批判した。これらの啓蒙思想家の活動により、長らく厳格な身分制社会に生きてきた日本国民に対し、「個人の自由と平等」という近代的な価値観がもたらされることとなった。
自由民権運動の理論的支柱
1870年代後半に入ると、天賦人権説は単なる啓蒙思想の枠を超え、現実の政治闘争である自由民権運動の強力な理論的武器となった。一部の薩長出身者らが権力を独占する藩閥専制政府に対し、板垣退助や植木枝盛らは天賦人権論を根本原理として掲げ、国民の政治参加(国会開設)や基本的人権の保障を強く要求した。
この時期、ルソーの『社会契約論』を中江兆民が漢文に翻訳した『民約訳解』が出版され、「東洋のルソー」と呼ばれた中江の思想は、多くの若者や民権運動家を熱狂させた。全国各地で結成された政治結社では天賦人権論に基づく活発な学習や議論が行われ、その成果は「五日市憲法」に代表される数々の私擬憲法(民間による憲法草案)の起草へと結実した。これらの草案の多くは、現代の目から見ても驚くほど手厚く基本的人権を保障する急進的かつ民主的な内容を含んでいた。
社会進化論の台頭と政府による弾圧
自由民権運動が全国的な高揚を見せる一方で、1880年代に入ると天賦人権説に対する真っ向からの批判が現れた。その代表格が、かつて自ら天賦人権論を説いていた加藤弘之である。加藤は1882年に『人権新説』を著し、チャールズ・ダーウィンの進化論を社会に適用した社会進化論(優勝劣敗・適者生存の思想)の立場から、天賦人権説を「科学的根拠のない空理空論の妄説」であると断じた。
この加藤の転向は、民権派との間に激しい論争を引き起こしたが、同時に君権の強いプロイセン(ドイツ)流の国家主義体制を構築しようとしていた明治政府にとって、極めて好都合な理論的援護射撃となった。政府は集会条例や新聞紙条例などの弾圧法令を次々と強化し、天賦人権論に基づく過激な民権運動の封じ込めを図った。
歴史的意義と大日本帝国憲法下の「人権」
1889年(明治22年)に公布された大日本帝国憲法は、天皇主権に基づく欽定憲法であり、そこで保障される国民の権利は、生まれながらに持つ自然権(天賦人権)ではなく、天皇から恩恵として与えられた「臣民の権利(恩賜の権利)」として法律の範囲内で認められるものにとどまった。これにより、公的な政治舞台における天賦人権説の流行は一旦の終息を見ることになる。
しかし、明治初期に天賦人権説が日本社会に与えた衝撃と歴史的意義は計り知れない。封建的身分制の解体期にあって、個人の尊厳や自由・平等という普遍的価値を日本に根付かせ、国民が自らの政治的権利を自覚して国家に対して声を上げるという、日本史上初の近代的な大衆政治運動を創出したからである。この思想の底流は決して完全に消滅したわけではなく、後の大正デモクラシー期における民本主義の台頭や、第二次世界大戦後の日本国憲法における「基本的人権の尊重」へと歴史的につながっていくこととなる。