参与 (さんよ)
【概説】
1867年(慶応3年)の王政復古の大号令に伴い、新政府の最高機関として設置された「三職」の一つ。総裁・議定の下に位置して実務を担当し、主に中下級公家や各藩の有力藩士が任命された。身分制を越えて実力者が国政に直接参画する道を開き、明治新政府の権力基盤を形成する極めて重要な役割を担った。
王政復古の大号令と三職の創設
1867年(慶応3年)12月9日、討幕派の公家と薩摩藩などの連携によって発せられた王政復古の大号令により、江戸幕府をはじめ、朝廷の旧体制である摂政や関白といった役職がことごとく廃止された。これに代わって、天皇親政に基づく新たな政治体制の最高機関として設置されたのが、総裁(そうさい)・議定(ぎじょう)・参与(さんよ)からなる三職(さんしょく)である。
総裁には皇族の有栖川宮熾仁親王が就き、議定には皇族や上級公卿、および有力な大名(薩摩藩の島津忠義、土佐藩の山内豊信、越前藩の松平慶永など)が任命され、新政府の上層部を形成した。そして、彼らの下で新政府の実務を担う役職として設けられたのが「参与」であった。
参与の構成と画期的な人材登用
参与には、討幕運動を推進した岩倉具視や大原重徳といった中下級公家(堂上公家)に加え、薩摩・長州・土佐・越前・安芸などの雄藩から選出された有力な藩士(陪臣)が任命された。具体的には、薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通、長州藩の木戸孝允、土佐藩の後藤象二郎や福岡孝弟、越前藩の由利公正などが名を連ねている。
この人事は、日本の政治史において極めて画期的な出来事であった。なぜなら、江戸時代までの厳格な身分制のもとでは、大名の家臣にすぎない藩士が直接朝廷の役職に就き、国政の意思決定に参画するなど到底あり得ないことであったからだ。参与の設置は、家格にとらわれず実力ある変革の指導者たちを新政府の要職に組み込むための制度的装置であり、維新期の身分秩序の打破と有能な人材登用を象徴するものであった。
小御所会議と新政府の実権掌握
三職が設置された当日の夜に行われた最初の三職会議、すなわち小御所会議(こごしょかいぎ)において、参与の存在感は早くも発揮された。この会議では、徳川慶喜に対する処分をめぐって激しい議論が交わされた。山内豊信ら旧幕府に同情的な議定(公議政体派)が慶喜の会議出席を求めたのに対し、岩倉具視や大久保利通ら討幕派の参与が強硬に反対し、最終的に慶喜に対する辞官納地(じかんのうち)の要求を決定づけたのである。
このように、参与は三職のなかでは最下位の役職であったものの、実務担当者としての強い結束と行動力をもって会議の主導権を握り、実質的に新政府の政策決定を牽引していくこととなった。彼ら参与の存在が、その後の戊辰戦争の遂行や諸改革の断行において、新政府の最大の原動力となったのである。
太政官制への移行とその後の影響
翌1868年(慶応4年)閏4月、新政府が政体書を発布してアメリカの三権分立制を模倣した太政官制(七官制)を敷くと、三職の制度はいったん廃止された。しかし、「参与」の名称はそのまま新制度における行政官の役職名として引き継がれた。
その後も明治政府の官制は頻繁に改組されるが、旧参与を務めた雄藩出身の志士たちは、「参議」や各省の「卿」といった要職を歴任していくことになる。王政復古期の「参与」は、わずかな期間の制度でありながら、明治維新の立役者たちに国政を動かす公式な舞台を与え、のちの藩閥政治や明治官僚制の原点となったという点で、極めて重要な歴史的意義を持っていたと言える。