駅馬 (えきば)
【概説】
律令制下の「駅制」において、全国の主要道路に設けられた駅家に配備された公用の馬。天皇や朝廷の使者(駅使)が、緊急の情報伝達や移動の際に乗り継ぐ交通手段として用いられた。古代の高度な官僚制国家を支える情報通信インフラの主軸を担った存在である。
律令道路網(駅路)と駅馬の機能
大化の改新以降、律令国家は中央集権化を推し進めるため、都と地方を結ぶ「五畿七道」の道路網である駅路を整備した。この駅路沿いには、約30里(約16キロメートル)ごとに駅家(えきや/うまや)が置かれ、そこに常備されたのが駅馬である。駅馬の配備数は道路の重要度(大路・中路・小路)によって規定されており、山陽道などの大路では各駅家に多くの駅馬が配備されていた。
中央からの緊急事態や命令を地方に伝える使者(駅使)は、天皇から授かった駅鈴(えきれい)を携帯していた。駅家に到着した駅使は、駅鈴に刻まれた溝(あな)の数に応じて特定の頭数の駅馬を給付され、次の駅家へと乗り継ぐことで、長距離を極めて迅速に移動することが可能であった。
駅馬の維持管理と民衆への重い負担
駅馬の維持や駅家の運営は、国家が指定した駅戸(えきこ)と呼ばれる周辺の農民らの労働力や、駅家に付随する駅田(えきでん)から得られる収益によって支えられていた。駅家の実務を監督する「駅長(えきちょう)」は、地域の有力な富豪層などから任命され、駅馬の飼育や調達、駅使の接待などに責任を負った。
しかし、駅馬の維持や駅使への対応は、地域社会や民衆にとって極めて重い負担であった。特に、東北地方における蝦夷征討などの軍事行動や、防人の動員、あるいは政変の発生時などには、多数の駅馬が過酷に使役されて斃死(へいし)することも珍しくなく、駅戸の荒廃を招く一因となった。
律令制の変質と駅馬の衰退
平安時代中期(10世紀頃)に入り、戸籍に基づく班田収授の制が機能しなくなると、律令体制に基づく駅制も急速に衰退した。国衙(地方官庁)の財政悪化に伴って駅田が荒廃し、駅戸の逃亡や没落が相次いだことで、駅家に十分な駅馬を常備することが困難となった。
国家的な通信網としての駅馬の機能が失われると、地方の動静を迅速に把握できなくなった朝廷は、国司や有力貴族による私的な伝達手段に依存するようになった。この駅制の崩壊と地方治安の悪化は、武士という新たな武装二重権力が成長していく歴史的背景とも深く結びついている。