民部省(明治時代) (みんぶしょう)
【概説】
明治初期の二官六省制において、地方行政や租税の徴収、戸籍、土木、勧業などを掌った中央官庁。国家財政を担う大蔵省との統合・分離という激しい変遷をたどり、近代的国家機構の形成過程における過渡期を象徴する存在である。
二官六省制の導入と民部省の設置
1869(明治2)年7月、明治新政府は版籍奉還の断行に伴い、中央官制の大改革を実施した。この改革において、古代の律令制を手本とした二官六省制(神祇官・太政官と、民部・大蔵・兵部・刑部・律部・外務の六省)が導入された。このとき、地方行政(民政)や租税、戸籍の編纂、土木、産業振興(勧業)などの広範な国内実務を担う官庁として設置されたのが民部省である。
民部省は、新政府の直轄地(府・県)や諸藩(知藩事)を統制し、統一的な国内統治を進める上での最重要機関と位置付けられた。しかし、当時の日本は版籍奉還直後で中央集権化の途上にあり、民部省の実務範囲や権限は極めて不安定な状態にあった。
大蔵省との対立と「民蔵統合・分離」の変遷
民部省の活動において、最も大きな課題となったのが財政を所管する大蔵省との境界線の曖昧さであった。地方行政(民部省)と租税徴収(大蔵省)は表裏一体の関係にあったため、両省の間で激しい主導権争い(民蔵分離論争)が勃発した。
大久保利通や大隈重信、伊藤博文らは、強力な中央集権体制と迅速な財政改革を推進するため、民政と財政の一元化を主張した。これを受け、民部省の設置からわずか1か月後の1869年8月、民部省は大蔵省に合併された(民部大蔵省)。しかし、この合併は「大蔵省への権限集中」に対する島津久光ら保守派や地方知事からの強い反発を招き、1870(明治3)年閏10月には再び両省が分離されることとなった。このように、省庁の統廃合が短期間に繰り返されたことは、新政府内における近代国家像をめぐる試行錯誤を如実に示している。
廃藩置県と民部省の廃止、そして内務省への継承
1871(明治4)年7月、新政府は最大の政治改革である廃藩置県を断行する。これに先立つ官制整理の中で、地方統治をより強力かつ一元的に行うため、民部省は正式に廃止され、その機能の大部分は再び大蔵省へと統合された。この時点では、大蔵省が民政と財政を兼ね備える超巨大省庁として君臨することとなった。
しかし、大蔵省に権限が集中しすぎることへの弊害や、1873(明治6)年の明治六年政変(征韓論をめぐる政変)を経た政治状況の変化に伴い、大久保利通を中心とする新たな内政官庁の設立が模索された。その結果、1873年11月に内務省が設置され、旧民部省が担っていた地方行政や勧業、土木などの機能は内務省へと引き継がれた。民部省が目指した地方統治と殖産興業の役割は、のちに近代日本の中枢となる内務省の官僚機構へと昇華していくこととなったのである。