左大臣
【概説】
律令制における最高国家機関である太政官の長官の一つ。名誉職としての性格が強い太政大臣が空席の場合、実質的に太政官の政務を統括した行政の事実上のトップである。大化の改新から明治維新後の内閣制度創設に至るまで、日本の政治機構において極めて重要な地位を占め続けた。
大化の改新と左大臣の創設
日本の歴史において「左大臣」という官職が初めて登場するのは飛鳥時代である。645年(大化元年)の乙巳の変によって蘇我蝦夷・入鹿の体制が打倒された後、新体制の構築を目指す中で唐の官制を模倣し、蘇我倉山田石川麻呂が初代左大臣に任命された。これが左大臣の起源とされている。その後、天智天皇の近江令や天武天皇の飛鳥浄御原令を経て、701年(大宝元年)の大宝律令の制定によって太政官制が完成し、左大臣の法的な位置づけが確固たるものとなった。
太政官における事実上の最高責任者
律令制下の国家機関において、太政官は神祇官と並んで「二官」を構成する行政の最高機関であった。太政官の長官(四等官の「カミ」にあたる)には、太政大臣、左大臣、右大臣の三公が置かれた。しかし、太政大臣は「適任者がいなければ置かない」とされる名誉職(則闕の官)であったため、常設される官職としては左大臣が最高位であった。左大臣は「一の上(いちのかみ)」と称され、国政の重要事項を合議し、天皇に奏上する太政官の政務を全面的に統括する権限を握っていた。
右大臣との関係および「左優位」の原則
太政官には左大臣とともに右大臣が置かれたが、両者の間には明確な序列が存在した。当時の日本は中国の思想を取り入れており、「左を尊ぶ」という原則(左上位)があったため、左大臣は右大臣の上位に位置づけられた。右大臣は左大臣を補佐し、左大臣が欠員であったり病気で出仕できなかったりする場合に、その職務を代行する役割を担った。奈良時代においては、左大臣に皇族(親王)が就き、右大臣に有力貴族(藤原不比等など)が就くという力関係が見られることもあった。
藤原氏の台頭と摂関政治における変質
平安時代に入り、藤原北家が天皇の外戚として権力を掌握するようになると、左大臣の性質も大きく変化した。藤原氏の当主は、天皇を補佐する令外官である摂政や関白に就任し、同時に太政官の筆頭である左大臣を兼任することが常態化した。たとえば、摂関政治の全盛期を築いた藤原道長も長らく左大臣の地位にあった。これにより、左大臣は純粋な行政長官としての役割から、貴族社会の最高権力者の指定席、あるいは有力な門閥貴族の地位を象徴する官職へと変質していった。
武家政権下の左大臣と近代への移行
鎌倉時代以降、政治の実権が朝廷から幕府(武家)へと移行すると、太政官制そのものが形骸化し、左大臣も朝廷内の儀礼的な名誉職となった。しかし、平清盛や足利義満のように、武家の最高権力者が自らの権威を糊塗し、公武にまたがる支配を正当化するために左大臣に任官する例も見られた。時代は下り、1867年(慶応3年)の王政復古の大号令を経て明治新政府が成立すると、古代の太政官制が一時的に復活し、左大臣も再び国政の要職として設置された。しかし、近代国家建設の過程で統治機構の近代化が急務となり、1885年(明治18年)に内閣制度が創設されたことで、左大臣はその1200年以上にわたる歴史的役割を終え、廃止された。