大伴氏 (おおともうじ)
【概説】
ヤマト王権において「連(むらじ)」の姓を有し、物部氏とともに軍事や警察を世襲した有力な神別氏族。6世紀前半に大伴金村が継体天皇の擁立などで絶大な権勢を振るったが、朝鮮半島外交の失敗を糾弾されて失脚した。のちに奈良時代には大伴旅人や家持などの優れた歌人を輩出したことでも知られる。
ヤマト王権における起源と職掌
大伴氏は、日本神話において天孫降臨に随従したとされる天忍日命(あめのおしひのみこと)を祖先とする神別氏族である。「大伴」という氏の名称は、ヤマト王権に直属する大規模な軍事・護衛集団であった「大伴(おおとも)」を統率する伴造(とものみやつこ)であったことに由来する。
同じく軍事を司る物部氏とともに王権の武力装置として重要な役割を担い、最高位の姓である「連(むらじ)」を与えられた。5世紀後半の雄略天皇の時代には、大伴室屋(むろや)が大連(おおむらじ)に任じられ、国政の枢機に参画するなど、次第に有力な中央豪族としての地位を固めていった。
大伴金村による権勢の絶頂
大伴氏の全盛期を築き上げたのは、6世紀前半に活躍した大伴金村(かなむら)である。5世紀末から6世紀初頭にかけてのヤマト王権は、王統の断絶という未曾有の危機に直面していた。武烈天皇が後嗣を残さずに崩御した際、金村は越前国(あるいは近江国)から応神天皇の5世の孫とされる男大迹王(おおどのおう)を迎え入れ、継体天皇として即位させるというキングメーカーの役割を果たした。
この功績により、金村は大連として国政の最高権力者となり、続く安閑・宣化・欽明の各天皇の時代に至るまで、約半世紀にわたって政権を主導した。この時期、大伴氏はヤマト王権の軍事のみならず、朝鮮半島諸国との外交交渉という極めて重要な職務をも一手に握ることとなった。
任那四県割譲問題と金村の失脚
金村の栄華に陰りを落としたのが、複雑化する朝鮮半島情勢であった。512年、金村は百済からの強い要請に応じ、朝鮮半島南部におけるヤマト王権の勢力圏であった任那(加耶)四県を百済に割譲する政策を実行した。当時は新羅の勢力拡大に対抗するため、百済との同盟関係を強化せざるを得ないという現実的な外交判断であったと推測されている。
しかし、この割譲から約30年後の540年、新羅に対する強硬派であった物部尾輿(おこし)らが、「金村は百済から賄賂を受け取って国家の領土を売り渡した」と激しく糾弾した。この批判を機に金村は失脚して政界を引退し、以後、大伴氏は大連の地位を失った。これに代わって、軍事権を掌握した物部氏と、王権の財政管理から台頭した新興の蘇我氏が二大勢力として激しい権力闘争を繰り広げる時代へと突入していく。
その後の大伴氏と文化史への貢献
政治の最前線からは後退したものの、大伴氏はその後も武門の名族としての誇りと実力を保ち続けた。飛鳥時代の672年に起きた壬申の乱では、大伴吹負(ふけい)や大伴馬来田(まくた)らが大海人皇子(天武天皇)の軍将として多大な武功を挙げ、氏族の存威を再び示した。
奈良時代に入ると、大伴氏は政治家としてだけでなく、文化的な側面で日本史に大きな足跡を残す。大伴旅人(たびと)や、その子である大伴家持(やかもち)は優れた歌人として活躍し、日本最古の和歌集『万葉集』の編纂に深く関与した。家持が残した「海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへりみはせじ」という長歌には、天皇を命がけで守る武門・大伴氏の強烈な自負が詠み込まれている。
しかし、奈良時代中期以降に激化した藤原氏の他氏排斥の波に抗うことはできず、長屋王の変や橘奈良麻呂の乱などに連座して次第に勢力を削がれていった。平安時代初期には、淳和天皇(諱が大伴親王)の名を避けて「伴氏(ともうじ)」と改姓したが、866年の応天門の変において伴善男(よしお)が放火の首謀者として流罪となったことで、中央の有力貴族としての伴氏(大伴氏)は完全に没落することとなった。