軍閥(中国)

袁世凱の死後、中国各地で私兵を擁して独立状態となり、列強の支援を受けながら領土争いを繰り返した地方の軍事勢力を何というか?
カテゴリ:
重要度
★★

軍閥(中国) (ぐんばつ(ちゅうごく)

1910年代〜1930年代

【概説】
清朝滅亡後の中国において、独自の軍隊を擁して各地に割拠し、支配権を争った地方の軍事・政治勢力。帝政崩壊後の政治的空白期に台頭し、それぞれが帝国主義列強と結びついて内戦を繰り返した。日本の昭和戦前期における対中国外交や満州進出に深く関わり、日中戦争へ至る歴史的背景を形作った存在である。

辛亥革命後の混乱と軍閥の割拠

1911年の辛亥革命によって清朝が崩壊した後、中華民国初代臨時大総統となった袁世凱が1916年に死去すると、中国は強力な中央政権を失い、無政府状態に近い混乱期に入った。この政治的空白のなかで、袁世凱の部下であった北洋軍閥の将領や、地方の有力者が各自の私兵(軍隊)を率いて割拠した。これが軍閥である。

軍閥は、単なる軍事集団にとどまらず、支配地域の徴税権や行政権を掌握する実質的な地方政権であった。彼らは支配権の拡大や北京政府の主導権を巡って、直隷(ちょくれい)派、安徽(あんき)派、奉天(ほうてん)派などに分裂して激しい内戦を繰り返した。この内乱を財政的・軍事的に支えたのが、中国での利権拡大を狙う帝国主義列強(イギリス、アメリカ、日本など)であり、軍閥と列強の結託が中国の政治的分断をより深刻なものとした。

満州・対華政策と「奉天派」張作霖

昭和初期の日本史において、最も深く関わったのが、中国東北部(満州)を本拠地とした奉天派の指導者、張作霖(ちょうさくりん)である。日本は日露戦争以来獲得してきた満州における権益(南満州鉄道や関東州の租借地など)を維持・拡大するため、張作霖を経済的・軍事的に支援し、彼を通じて満州の安定を図ろうとした(いわゆる「満蒙問題」)。

しかし、張作霖が次第に日本のコントロールを離れ、独自の満州支配や北京への進出を図るようになると、日本の政界や満州に駐屯する関東軍との間に摩擦が生じるようになった。さらに、当時の日本の対中国政策は、第一次世界大戦後の国際協調秩序(ワシントン体制)を重視して内政不干渉を説く幣原喜重郎の「協調外交」と、武力介入をも辞さない田中義一内閣の「積極外交」の間で激しく揺れ動いており、中国軍閥との関係もその影響を強く受けていた。

北伐の進展と軍閥時代の終焉

1926年、蒋介石率いる国民政府(国民革命軍)は、軍閥の打倒と中国の統一を目指す北伐(ほくばつ)を開始した。これに対し、田中義一内閣は居留民保護を名目に数度にわたる山東出兵を行い、北伐軍を軍事的に牽制しようとしたが、中国の統一を目指すナショナリズムの潮流を止めることはできなかった。

北伐軍に敗れて満州へ撤退する途上の1928年6月、張作霖は関東軍の高級参謀・河本大作らによって爆殺された(張作霖爆殺事件)。関東軍はこの混乱に乗じて満州の直接支配(領有化)を画策したが、内閣や昭和天皇の反対、満州軍閥側の抵抗により失敗に終わった。その後、張作霖の後を継いだ息子の張学良は、国民政府への帰順(易幟(えきし))を表明し、中国の全土統一が実現した。これにより軍閥割拠の時代は終焉を迎え、満州への危機感を募らせた関東軍は、1931年の満州事変という強硬手段へと突き進むこととなる。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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