張作霖 (ちょうさくりん)
【概説】
日本の支援を受けて満州を実効支配していた奉天派軍閥の巨頭。国民革命軍の北伐に敗れて本拠地に逃れる途中、関東軍の謀略によって暗殺された。彼の死とそれに伴う政治的影響は、のちの満州事変を引き起こす重大な要因となった。
馬賊から「満州の覇王」へ
張作霖は清末の奉天省(現在の遼寧省)に生まれ、若くして馬賊の頭目として頭角を現した。日露戦争(1904〜1905年)においては日本軍に協力してロシア軍と戦うなどし、その軍事力を認められて清朝の正規軍に編入された。辛亥革命を経て中華民国が成立すると、北洋軍閥の祖である袁世凱の傘下に入り、満州(中国東北部)における軍事的・政治的基盤を固めた。袁世凱の死後、北洋軍閥が分裂する中で奉天派軍閥を形成し、東三省(奉天・吉林・黒竜江)を実質的に支配する巨大な勢力を築き上げた。
日本との結びつきと深まる摩擦
張作霖の台頭の背景には、満州における特殊権益の維持と拡大を狙う日本(特に関東軍)からの強力な資金・武器援助があった。日本側は、ロシア(のちのソ連)の南下を防ぐ防波堤として、さらには日本の経済的生命線と位置づける満州を安定的に支配するための「親日的な傀儡(かいらい)」として彼を利用しようとした。張作霖自身も日本の力を巧みに利用して勢力を拡大したが、単なる日本の操り人形に甘んじるつもりはなかった。彼は中国本土(関内)への進出に強い野心を示し、欧米諸国とも独自の外交関係を模索するなど、次第に自立化の動きを見せるようになった。このような張作霖の姿勢は、満州の権益を絶対視する関東軍との間に深刻な摩擦を生むこととなった。
北伐の進展と張作霖爆殺事件
1926年、蒋介石率いる国民政府が中国統一を目指して北伐を開始すると、張作霖は北京で大元帥に就任してこれに対抗した。しかし、国民革命軍の攻勢の前に戦局は次第に悪化していった。1928年(昭和3年)、日本の田中義一内閣は、北伐の戦火が満州に波及することを恐れ、張作霖に対して北京から撤退し満州へ帰還するよう勧告した。張作霖はこれを受け入れ、同年6月に特別列車で本拠地の奉天へと向かった。ところが6月4日、奉天郊外の皇姑屯(こうことん)を通過中、彼の乗る列車が鉄橋ごと爆破され、張作霖は重傷を負って間もなく死亡した。この暗殺事件は、張作霖を見限って満州の武力占領を目論んだ関東軍の高級参謀・河本大作らが独断で引き起こしたものであり、張作霖爆殺事件(満州某重大事件)と呼ばれる。
満州事変へと連なる歴史的意義
関東軍は、張作霖を暗殺すれば満州が混乱に陥り、それを口実に軍事介入できると計算していた。しかし、この謀略は完全に裏目に出た。張作霖の跡を継いだ息子の張学良は、父を殺した日本に対して激しい抗日感情を抱き、同年12月には国民政府(蒋介石)に帰順して青天白日満地紅旗を掲げる易幟(えきし)を行った。これにより、国民政府による中国の形式的な統一が完成し、満州における日本の権益はかえって大きな危機に直面することとなった。張作霖の死は日中間の対立を不可逆的なものにし、結果的に日本が武力による満州直接支配へと突き進む1931年の柳条湖事件および満州事変への決定的な契機となったのである。