第1次国共合作 (だいいちじこっきょうがっさく)
【概説】
中国において、列強による帝国主義的支配と国内の軍閥割拠を打破し、国家統一を達成するために結成された中国国民党と中国共産党の協力体制。孫文の提唱した「連ソ・容共・扶助工農」の方針に基づいて成立し、共同で北伐を推進した。大正から昭和初期にかけての東アジア情勢を激変させ、日本の対中国外交・軍事政策の転換を促す決定的な契機となった。
合作の成立背景と「打倒軍閥・反帝国主義」の潮流
辛亥革命後、中国は清朝の滅亡を迎えたものの、軍事力を背景に各地を支配する「軍閥」が割拠し、事実上の分裂状態が続いていた。これに対し、中国の近代化と統一を目指す孫文は、民衆運動の高まり(五四運動など)やロシア革命の成功に刺激を受け、従来の組織改革を模索する。そして、ソビエト連邦(コミンテルン)からの働きかけを受け入れ、1924年1月の中国国民党第1回全国代表大会において、共産党員の国民党への個人加入を認める「容共」方針などを盛り込んだ三大政策(連ソ・容共・扶助工農)を採択した。これにより、民族主義的な国民党と社会主義的な共産党が手を結ぶ第1次国共合作が正式に成立した。
「北伐」の進展と幣原外交への揺さぶり
国共合作により組織力を強化した国民党は、独自の近代化軍隊である国民革命軍を育成。1925年の孫文急逝後、実権を握った蒋介石の指揮のもと、1926年に対立軍閥を打倒して中国を統一するための「北伐」を開始した。この中国におけるナショナリズムの高揚と統一への動きは、中国国内(特に満州や華北)に多大な権益を保持していた日本にとって極めて深刻な事態であった。当時、日本の外相であった幣原喜重郎は、中国の内政への不介入を原則とする協調外交(幣原外交)を展開していたが、北伐軍の接近に伴い現地居留民や権益が脅かされる事態となり、日本国内では「弱腰」であるとして幣原外交への批判が噴出することとなった。
合作の崩壊と昭和日本における武力介入への転換
北伐が進展するにつれ、地主や資本家を支持基盤とし、軍権を握る蒋介石ら国民党右派と、労働運動・農民運動を急進化させる共産党との間の路線対立が表面化した。1927年4月、蒋介石は上海で上海クーデター(四・一二政変)を断行し、共産党を武力で徹底的に弾圧。これにより第1次国共合作は崩壊した。この分裂劇と同調するように、日本国内でも政権交代が起こり、田中義一内閣が成立。田中内閣は、これまでの協調路線を放棄して対中積極外交へと舵を切り、北伐軍の華北進出を遮るために計3回にわたる山東出兵を強行、済南事件などで国民政府軍と直接衝突した。国共合作とその崩壊に伴う一連の混乱は、日本が満州事変へと突き進む軍事的な不干渉路線の破綻と、昭和戦前期の強硬外交への転換を決定づける歴史的転換点となった。