学制
【概説】
1872(明治5)年に太政官布告によって公布された、日本初となる近代的な学校制度を定めた教育法令。フランスの教育制度をモデルに全国を学区に分割し、身分や性別を問わない「国民皆学」の理念を掲げた。
制定の背景と「被仰出書」が掲げた理念
明治維新後、新政府が目指す富国強兵や殖産興業といった近代国家建設のためには、国民一人ひとりの知的能力の向上が不可欠であった。1871年に初代文部卿・大木喬任のもとで文部省が創設されると、欧米の制度調査を踏まえた本格的な教育制度の設計が開始された。
学制公布に際して、その基本理念を示す太政官布告として被仰出書(おおせいだされしょ)が発せられた。この中では「邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん事を期す」という国民皆学の壮大な目標が高らかに宣言された。また、従来の身分制に基づく儒教的・道徳的な学問を「虚学」として退け、個人の立身出世や生活向上に直結する実学主義が強く打ち出された。これは、同年に刊行された福沢諭吉の『学問のすゝめ』の思想とも軌を一にするものであった。
フランス型の中央集権的システムの導入
学制の制度的特徴は、当時のフランスの教育制度をモデルとした中央集権的・画一的な学区制を導入した点にある。
具体的には、全国を8つの大学区に分け、その下に256の中学区、さらに5万3760の小学区を設けるというピラミッド型の構想であった。1つの小学区に1校の小学校を設置し、全国の男女児童に対して下等小学4年・上等小学4年の計8年間の就学を義務づけることを目指した。新政府がフランス型を採用した理由は、教育権を国家が強力に掌握し、全国均質な国民を画一的かつ迅速に育成するシステムが、天皇を中心とする中央集権国家の建設に最も合致していたからである。
民衆の反発と「学制反対一揆」
理念や構想は壮大であったものの、現実の日本社会の状況を無視した性急な制度でもあった。普及に向けた最大の障壁となったのは、学校の建設費や維持費、そして授業料が原則として民衆の自己負担(受益者負担)とされたことである。
さらに、当時の農村において子どもは家業を支える重要な労働力(子守りや農作業の担い手)であった。子どもを学校に取られるうえに、重い金銭的負担まで強いられることは、民衆の生活を直接的に圧迫した。その結果、西日本を中心に学校の焼き討ちなどを伴う学制反対一揆が頻発した。これは、同時代の血税一揆(徴兵令への反発)や地租改正反対一揆と同様に、「上からの急激な近代化政策」に対する民衆の激しい抵抗運動であった。
学制の終焉と歴史的意義
民衆の反発や財政難により現実の就学率は低迷し、1870年代後半の時点でも就学率は40%程度に留まっていた。厳格な学区制の維持が困難になった政府は方針転換を余儀なくされ、1879(明治12)年に学制を廃止した。代わって、アメリカの教育制度を参考にした地方分権的で自由主義的な教育令が公布されることとなる。
しかし、学制が全くの失敗に終わったわけではない。この法令によって、江戸時代の寺子屋などとは異なる「身分制にとらわれない近代学校のインフラ」が全国に整備される端緒が開かれた。ここで撒かれた近代教育の種は、後の日本の高い識字率や急速な近代化を根底で支える基礎となり、日本の教育史において画期的な歴史的意義を持っている。