国学
【概説】
江戸時代中後期に発達した、儒教や仏教など外来の思想を排し、『古事記』や『万葉集』などの古典から日本固有の精神や文化を究明しようとした学問。契沖や荷田春満らに始まり、賀茂真淵を経て本居宣長によって大成され、のちに平田篤胤によって実践的な宗教運動へと展開して幕末の政治情勢に多大な影響を与えた。
国学誕生の背景と初期の展開
江戸時代初期の思想界は、幕府の庇護を受けた朱子学をはじめとする儒教や仏教が主流であった。しかし、17世紀後半の元禄期頃になると、儒学のなかでも後世の解釈を排して孔子・孟子の原典に直接立ち返ろうとする古学(伊藤仁斎や荻生徂徠ら)が台頭した。こうした原典主義的・実証的な学問態度は、日本の古典研究にも波及していく。
国学の先駆となったのは、僧侶の契沖(けいちゅう)である。彼は徳川光圀の命を受けて『万葉代匠記』を著し、儒教や仏教の道徳的解釈を持ち込まず、言語的・実証的な観点から『万葉集』を研究する手法を確立した。続いて、伏見稲荷の神職であった荷田春満(かだのあずままろ)が、古典の語学研究を通じて日本古来の「古道」を明らかにする必要性を説き、国学という学問分野の基礎を築いた。
賀茂真淵と本居宣長による確立と大成
荷田春満の門人である賀茂真淵(かものまぶち)は、『万葉集』の研究をさらに深め、古代日本人のありのままの素朴で力強い感情を「ますらをぶり(高く直き心)」と表現し、そこに日本独自の精神を見出した。真淵は和歌を通じて古代の心を追体験することを重視し、国学の思想的側面を大きく前進させた。
この真淵の学問を受け継ぎ、国学を思想大系として完成させたのが本居宣長(もとおりのりなが)である。伊勢国松坂の町医者であった宣長は、約35年の歳月をかけて『古事記』を厳密な実証的文献批判に基づいて解読し、大著『古事記伝』を完成させた。宣長は、儒教的な理屈や道徳的価値観を「漢意(からごころ)」として徹底的に排斥し、人間のありのままの自然な感情である「もののあはれ」や、神々の所業を人間の知恵で解釈せずそのまま受け入れる「惟神の道(かんながらのみち)」こそが、日本固有の真理であると主張した。
平田篤胤と復古神道の展開
宣長の死後、19世紀に入ると国学は新たな局面を迎える。宣長の没後門人を自称した平田篤胤(ひらたあつたね)は、宣長の学問から文献学的な実証主義を後退させ、宗教的・実践的な側面を極端に強調した。篤胤は、日本が万国に優越する神の国であるとする強烈な自国優越主義や、死後の霊魂の行方を論じる幽冥観を説き、これを「復古神道」として体系化した。
篤胤の思想は、貨幣経済の浸透や村落共同体の変容に直面し、精神的な拠り所を求めていた地方の豪農層や神職の間に急速に浸透し、巨大な草の根のネットワークを形成することとなった。この平田派の国学は「草莽の国学」とも呼ばれ、学問の枠を超えて民衆の生活感情と結びついた。
歴史的意義と幕末維新への影響
国学は当初、古典文学や言語の文献学的研究として出発したが、次第に日本人のアイデンティティや国体観を再定義する強力な思想運動へと変貌した。特に平田篤胤らによって教説化された後期国学は、幕末の対外危機(黒船来航など)を背景に、天皇を尊び外圧を排除しようとする尊王攘夷運動の強力なイデオロギーとして機能した。
国学が醸成した「日本古来の純粋な姿に戻るべきだ」という復古的イデオロギーは、江戸幕府を倒し古代の天皇親政に回帰しようとする王政復古の原動力となり、明治維新の成立に不可欠な役割を果たした。さらに維新後には、新政府による神仏分離令や大教宣布などの宗教政策、ひいては近代日本の国家神道の形成にも決定的な影響を与えることとなったのである。