本草学 (ほんぞうがく)
【概説】
中国から伝わった、薬用植物などを中心とする実用的な博物学・動植物学。日本では江戸時代に実学として独自の発展を遂げ、実地踏査を重んじる客観的・科学的な態度を育成して、後の近代植物学や西洋博物学受容の豊かな土壌を形成した。
本草学の起源と日本への伝来
本草学は古代中国に起源を持つ学問であり、「本草」とは医療の基本となる草根木皮などの薬用資源を意味する。古代から中世にかけて様々な本草書が編纂されたが、その集大成と言えるのが、明代に李時珍が著した『本草綱目』である。日本へは古代から薬物に関する知識や現物が伝来していた(正倉院薬物などがその例である)が、江戸時代に入ると儒学の隆盛とともに、単なる文献解釈の枠を超えて実証的な学問として注目されるようになった。慶長年間には林羅山が長崎で『本草綱目』を入手して徳川家康に献上しており、これを契機として、日本における本草学の本格的な研究が幕を開けることとなった。
中国の模倣からの脱却と独自の発展
江戸時代前期の本草学は、中国の文献を解読し、日本に存在する動植物の名称と中国の名称(漢名)を比定する「名物学」の域を出なかった。しかし、研究が進むにつれて、日本の自然環境や生態系が中国とは大きく異なることが認識されるようになる。その転換点となったのが、18世紀初頭に貝原益軒が著した『大和本草』である。益軒は自らの足で実地調査を行い、中国の本草書に縛られない独自の分類法を採用して、日本の風土に根ざした実用的な本草学を確立した。同時期には稲生若水が『庶物類纂』を編纂するなど、書斎の学問から実地踏査と観察を重んじる学問への移行が進んだ。
享保の改革と幕府による保護・奨励
本草学が社会において極めて重要な役割を担うようになったのは、第8代将軍・徳川吉宗による享保の改革の時期である。吉宗は実学を奨励し、殖産興業と医療の充実を目指して全国規模での薬草調査(諸国採薬)を命じた。この過程で、野呂元丈や田村藍水などの本草学者が幕府の庇護のもとで活躍した。彼らの活動は、高価な輸入生薬に代わる国産薬種(和薬)の開発だけでなく、飢饉に備えるための救荒植物の研究や農業技術の改良にも繋がり、江戸時代の社会基盤を支える実用的な科学として大きく貢献した。
物産会の流行と近代博物学への止揚
江戸時代中期以降、本草学の対象は薬用植物にとどまらず、動物や鉱物など自然界のあらゆる事象へと拡大していった。平賀源内らは、各地の珍しい動植物や鉱物を持ち寄る「薬品会(物産会)」を頻繁に開催し、知識の共有と本草学の普及に努めた。さらに江戸時代後期になると、蘭学の隆盛に伴い西洋の近代的な科学知識が流入する。小野蘭山が『本草綱目啓蒙』を著して日本の本草学を集大成する一方で、宇田川榕菴の『植学啓原』や伊藤圭介の『泰西本草名疏』などにより、西洋のリンネの植物分類法が導入された。こうして伝統的な本草学は、客観的な観察と体系的な分類を基礎とする近代的な植物学や博物学へと発展的に解消され、明治以降における近代科学受容の基盤として決定的な役割を果たしたのである。