内田康哉

高校日本史的重要度
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【参考リンク】
内田康哉(Wikipedia)

哉

「哉」の書き方

内田康哉 (うちだやすや/こうさい)

1865年〜1936年

【概説】
明治から昭和初期にかけて外務大臣を歴任した外交官、政治家。田中義一内閣の全権として不戦条約に調印した際、条文中の「人民ノ名ニ於テ」という文言が天皇主権を定めた大日本帝国憲法に抵触するとして、激しい国内反発を招いた人物である。

不戦条約調印と「人民ノ名ニ於テ」問題

1928(昭和3)年、パリで国際紛争解決の手段として戦争を放棄する不戦条約(ケロッグ・ブリアン協定)が結ばれた。内田康哉は時の田中義一内閣の全権としてこれに調印したが、条約第1条にある「其の各自の人民の名に於て(in the names of their respective peoples)」という文言が、帰国後に大きな政治問題となった。

野党の立憲民政党や枢密院、右翼勢力は、この文言が天皇大権(統治権の総攬者としての天皇の権限)を定めた帝国憲法に反すると猛烈に批判した。この結果、内田は責任を取る形で貴族院議員を辞任。政府は「この宣言は日本国には適用されない」という趣旨の宣言書を付すことで、ようやく批准にこぎつけた。この事件は、憲法解釈をめぐる政争が外交に重大な影響を与えた象徴的な事例である。

満州事変と「焦土外交」への転換

内田の足跡は不戦条約問題にとどまらない。のちに南満州鉄道(満鉄)総裁を経て、1932(昭和7)年には五・一五事件後の斎藤実挙国一致内閣で再び外務大臣に就任した。この時期、日本は満州事変を引き起こし、国際社会から孤立しつつあった。

かつて平和的な不戦条約に署名した内田であったが、この局面では一転して強硬姿勢を崩さなかった。帝国議会において「国を焦土にしても(焦土外交)」満州国を承認すると言明し、翌年には国際連盟からの脱退を強行した。内田の政治的軌跡は、大正デモクラシー期の国際協調外交から、昭和初期の軍国主義・孤立主義へと日本が急傾斜していく過程を象徴している。

最終更新:
2026年10月23日 @ 15:39

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