貴族院
【概説】
大日本帝国憲法下における帝国議会の上院。皇族や華族、多額納税者など、国民の選挙を経ずに天皇から任命された特権的な議員によって構成された。民選議院である衆議院の急進的な動きを牽制し、天皇制や藩閥政府を擁護するための防波堤としての役割を担った。
貴族院の創設と目的
1889年(明治22年)に発布された大日本帝国憲法に基づき、翌1890年(明治23年)の第1回帝国議会開会とともに設置された。憲法起草の中心人物であった伊藤博文は、議会を開設するにあたり、民選議院である衆議院が急進的な民主主義や政党政治に傾倒することを強く警戒していた。そのため、君主大権を擁護し、衆議院の行き過ぎた法案や予算要求を抑制する「保守の重鎮」としての機関が必要とされ、二院制を採用したうえで上院として貴族院が設けられたのである。
複雑な議員構成
貴族院は衆議院とは異なり、選挙による国民の代表ではなく、非公選の特権的な階層によって構成されていた。その内訳は主に三種類に大別される。第一に成年以上の皇族男子である皇族議員、第二に華族から選ばれる華族議員、第三に天皇の任命による勅任議員である。
華族議員のうち、最高位の公爵と侯爵は世襲制で、成年とともに自動的に終身議員となったが、伯爵・子爵・男爵は同爵者による互選であった。勅任議員には、国家に功労のある者や学識経験者から選ばれる勅選議員、各道府県の多額納税者の中から互選された多額納税者議員が含まれ、後年には帝国学士院会員の互選枠も追加された。このような非民主的な構成により、社会的・経済的エリート層が国政に強い影響力を持つ仕組みとなっていた。
衆議院との関係と「防波堤」としての役割
権限の面では、予算の先議権が衆議院に与えられていたことを除けば、貴族院は衆議院とほぼ対等の極めて強い権限を持っていた。衆議院で可決された法案であっても、貴族院が同意しなければ法律として成立することはなかった。
この強い権限を活用し、初期の貴族院は藩閥政府と結びつき、初期議会において民党(自由党や立憲改進党など)が提出する予算削減案や地租軽減案などに激しく抵抗する強力な「防波堤」として機能した。政府にとって貴族院は、政党の進出を阻み、統治機構の安定を図るための極めて重要な政治装置であった。
政党政治の進展と貴族院の変容
しかし、時代が下り大正デモクラシー期に入ると、貴族院の性格にも変化が生じた。貴族院内部には「研究会」や「茶話会」「交友倶楽部」などの院内会派が形成され、これらが独自の政治勢力として振る舞うようになった。彼らは単に政府に従属するだけでなく、時に独自の利害に基づいて倒閣運動に加担したり、衆議院の政党(立憲政友会や憲政会など)と結託して内閣に閣僚を送り込んだりするなど、政界のキャスティングボートを握る存在へと変貌した。
一方で、政党内閣期にあっても貴族院の保守的な本質は変わらなかった。1925年(大正14年)の普通選挙法制定に際しては、社会主義運動の激化を警戒して強い難色を示し、その代償として治安維持法の制定と抱き合わせにすることを強く求めたことなどは、その象徴的な出来事である。
終焉と参議院への移行
昭和期に入り、軍部が台頭し政党政治が崩壊する中でも貴族院は存続したが、第二次世界大戦の敗戦により日本の政治体制は根本的な変革を迫られた。1946年(昭和21年)に公布された日本国憲法において、主権在民の原則が確立し、特権身分である華族制度の廃止が決定された。
これに伴い、1947年(昭和22年)5月3日の日本国憲法と国会法の施行をもって帝国議会は幕を閉じ、貴族院は半世紀以上の歴史に終止符を打った。二院制における上院の役割は、新たに国民の直接選挙によって選出される参議院へと引き継がれることとなった。