協調外交

1920年代を中心に行われた、英米などの列強との歩調を合わせ、軍事力よりも平和的な経済進出を重んじた外交路線を何というか?
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★★★

【参考リンク】
幣原外交(Wikipedia)

協調外交

1920年代

【概説】
第一次世界大戦後の1920年代(大正後期から昭和初期)にかけて、日本が英米などの列強と歩調を合わせ、平和的に国益を追求した外交姿勢。国際連盟やワシントン体制といった新たな国際秩序を尊重し、中国への内政不干渉や経済的進出を中心とする穏健な政策が展開された。

ワシントン体制の成立と外交路線の転換

第一次世界大戦の未曾有の惨禍を経て、国際社会では帝国主義的な領土拡張競争への反省から、平和主義や国際協調主義の機運が高まった。1920年には史上初の国際平和機構である国際連盟が設立され、アジア・太平洋地域においては、1921年から1922年にかけて開催されたワシントン会議により、海軍軍縮や中国の主権尊重、門戸開放などを柱とするワシントン体制が構築された。

当時の日本は、大戦中の対華21カ条要求やシベリア出兵などによって中国の民族主義を刺激し、欧米列強、特にアメリカとの間に深刻な対立を生じさせていた。国際的に孤立しつつあった日本は、ワシントン会議を機に従来の膨張主義的な外交路線の修正を迫られた。これに順応し、欧米列強と協調関係を築くことで自国の安全保障を確保し、通商貿易による経済的利益の拡大を図ろうとしたのが協調外交の始まりである。

幣原外交の展開と中国政策

日本の協調外交を象徴し、強力に推進したのが、外交官出身の政治家である幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)である。彼は加藤高明内閣、第1次若槻礼次郎内閣、浜口雄幸内閣、第2次若槻内閣で外務大臣を務め、その外交姿勢は「幣原外交」と称された。

幣原は英米との信頼関係を最重視し、軍縮条約を厳格に遵守した。最大の懸案であった中国に対しては、武力による介入を避け、内政不干渉の原則を貫きながら、条約に基づく合法的な経済権益の維持・拡大を目指した。中国で反帝国主義運動である五・三〇運動が起きたり、蒋介石による北伐が進行したりした際にも、列強との協調を保ちつつ、あくまで武力行使を控えた平和的な対応に努めたのである。

政友会の「積極外交」との対立

しかし、1920年代の日本の外交路線は常に一枚岩であったわけではない。協調外交は、主に憲政会(後の立憲民政党)内閣によって推進されたが、対抗勢力である立憲政友会はこれを「軟弱外交」として激しく批判した。

1927年に成立した立憲政友会の田中義一内閣は、幣原外交から方針を転換し、中国での権益を武力で擁護する「積極外交(強硬外交)」を展開した。蒋介石の北伐軍に対して日本人の保護を名目に山東出兵を行い、中国軍と武力衝突する済南事件を引き起こしたほか、張作霖爆殺事件(満州某重大事件)が発生するなど、中国側の民族主義運動と激しく対立した。このように、大正デモクラシー期から昭和初期にかけての外交政策は、政党政治の展開(憲政の常道)と連動して、協調外交と積極外交の間で揺れ動いていた。

協調外交の挫折と歴史的意義

1929年に立憲民政党の浜口内閣が成立すると、幣原は外相に復帰して再び協調外交を展開し、1930年のロンドン海軍軍縮条約の締結に漕ぎ着けた。しかし、この条約調印は海軍軍令部や右翼からの猛烈な反発を招き、統帥権干犯問題という深刻な政治問題を引き起こした。

さらに、1929年の世界恐慌に端を発する昭和恐慌による深刻な経済不況と、中国における国権回復運動の満州への波及は、「平和的な経済進出」という協調外交の前提を根底から崩壊させた。国内の不満が高まる中、現状打破を求める関東軍(満州駐留の日本軍)が1931年に満州事変を引き起こした。幣原は事態の不拡大に努めたが軍部の独走を止めることはできず、協調外交は完全に挫折した。

1920年代の協調外交は、日本がアジア太平洋における覇権主義を自己抑制し、国際秩序への順応と平和的発展を模索した重要な試みであった。しかし、その崩壊は結果として日本の国際的孤立と国際連盟脱退、そして軍部独裁と破滅的な戦争への道を決定づける歴史的な転換点となったのである。

外交五十年 (中公文庫 し 5-2)

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大正デモクラシーと政党政治

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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