大正デモクラシー
【概説】
大正時代を中心として高揚した、憲政擁護や普通選挙の実現、言論・集会の自由などを求める民主主義的・自由主義的な風潮や社会運動の総称。明治以来の藩閥・官僚中心の政治から、民衆の意向を反映した政党政治や社会の近代化へと転換しようとする動きであり、日本における大衆社会への本格的な移行を示す歴史的画期となった。
大正デモクラシーの勃興と第一次護憲運動
明治末期から大正初期にかけて、日清・日露戦争を経て日本の資本主義が急速に発達し、都市を中心とする新中間層や労働者階級が成長した。これに伴い、高い教育を受け政治意識を高めた都市民衆の間で、一部の特権階級である藩閥や官僚が政治を独占することへの不満が鬱積していった。
その転換点となったのが、1912(大正元)年末から翌年にかけて勃発した第一次護憲運動である。陸軍の軍備拡張要求(二個師団増設問題)に端を発した第3次桂太郎内閣の成立に対し、尾崎行雄や犬養毅らが「閥族打破・憲政擁護」を掲げて激しい反対運動を展開した。この運動はジャーナリズムに支持されて全国に波及し、数万人の民衆が国会議事堂を取り囲む暴動へと発展した。その結果、桂内閣はわずか50日余りで退陣に追い込まれ(大正政変)、民衆の力が政治を動かすという大正デモクラシーの幕開けを告げる象徴的な出来事となった。
思想的支柱としての「民本主義」と天皇機関説
大正デモクラシーを理論的・思想的に支えた最大の功労者が、東京帝国大学教授の吉野作造である。吉野は1916(大正5)年に雑誌『中央公論』で論文を発表し、民本主義を提唱した。民本主義とは、大日本帝国憲法における「天皇主権」の枠組みを犯すことなく、政治の目的は一般民衆の利福にあり、政策の決定は民衆の意向に従うべきであるとする現実的なデモクラシー論であった。
また、憲法学者の美濃部達吉が唱えた天皇機関説(国家法人説)も、国家という法人が統治権を持ち、天皇はその最高機関として憲法に従って統治権を行使するという解釈により、政党内閣制を理論的に正当化する役割を果たした。これらの啓蒙思想は、『中央公論』や『改造』といった総合雑誌や、知識人による結社(黎明会や新人会など)を通じて広く普及し、学生や大衆の間に民主主義的な価値観を根付かせていった。
多様な大衆運動の展開
第一次世界大戦の勃発による未曾有の好景気(大戦景気)は日本経済を飛躍させたが、同時に深刻なインフレーションをもたらし、生活苦にあえぐ民衆の不満を限界まで高めた。1918(大正7)年に富山県の漁村から始まった米騒動は、またたく間に全国的な大衆蜂起となり、これを鎮圧するために軍隊が出動する事態となった。この米騒動の衝撃は、権力側に対する大衆の力を証明し、多様な社会運動が一気に開花する引き金となった。
労働分野では、鈴木文治が創設した友愛会が日本労働総同盟へと発展して労働争議を積極的に指導し、農村では地主に対して小作料の減免を求める日本農民組合が結成された。さらに、被差別部落の解放を自らの手で勝ち取ろうとする全国水平社の結成(1922年)や、平塚らいてう・市川房枝らによる新婦人協会を中心とした婦人参政権獲得運動など、これまで声を上げられなかった被抑圧者層による権利獲得運動が社会の各層で力強く展開されたのである。
政党内閣の定着と普通選挙の実現
社会運動の高揚は、現実の政治体制にも大きな変革をもたらした。米騒動の責任をとって寺内正毅内閣が総辞職したのち、立憲政友会総裁の原敬が、陸海軍と外務の各大臣を除く全閣僚を政党員で固めた本格的な政党内閣を組織した。
その後、知識人や労働者を中心に普通選挙(財産資格を問わない選挙権の付与)を求める普選運動が全国規模で展開された。1924(大正13)年の第二次護憲運動を経て成立した護憲三派(憲政会・立憲政友会・革新倶楽部)による加藤高明内閣のもとで、1925(大正14)年に悲願であった普通選挙法が制定され、満25歳以上のすべての男子に選挙権が与えられた。これにより有権者数は約4倍に激増し、1932(昭和7)年の五・一五事件で犬養毅内閣が崩壊するまで、衆議院の多数党が内閣を組織する「憲政の常道」と呼ばれる政党政治の黄金時代が到来した。
歴史的意義と限界
大正デモクラシーは、明治憲法体制の枠内でありながらも、日本の政治に「民衆の意思」を組み込み、政党政治と大衆社会の基盤を確立したという点で極めて重要な歴史的意義を持つ。
しかし、その限界もまた明白であった。普通選挙法成立と同時に、国体(天皇制)の変革と私有財産制度の否認を目的とする結社を厳罰に処す治安維持法が制定されたことは、社会主義・共産主義運動や急進的な社会運動を徹底的に弾圧するための「アメとムチ」の政策であった。また、民本主義に基づく民主化の要求は、軍部が不可侵の権力とする「統帥権」に切り込むことはできず、さらに当時の日本が抱えていた朝鮮や台湾などへの植民地支配に対する批判的な視座も乏しかった。
やがて昭和初期の深刻な経済恐慌(昭和恐慌)や農村の疲弊、満州事変以降の国際的孤立の中で、腐敗が目立つ政党政治は国民の支持を急速に失っていく。その間隙を縫って台頭した軍部のファシズム的な動きに抗しきれず、大正デモクラシーが築き上げた自由主義的な成果は、第二次世界大戦へと向かう時代の波の中で崩壊への道を辿ることとなったのである。