不戦条約
【概説】
1928年(昭和3年)、国際紛争の解決手段として「戦争を放棄する」ことを宣言し、日本・アメリカ・フランスなど15カ国がパリで調印した多国間条約。発案者の名をとって「ケロッグ・ブリアン条約」とも呼ばれる。歴史上初めて戦争の違法化を明文化した画期的な条約であったが、日本国内ではその文言をめぐって深刻な憲法論争を引き起こした。
第一次世界大戦後の国際協調と条約の成立
第一次世界大戦の甚大な被害と惨禍への反省から、1920年代の国際社会では平和主義と軍縮の気運がかつてなく高まっていた。国際連盟の設立やワシントン体制・ロカルノ体制の構築など、協調外交が推進されるなか、フランスの外相ブリアンとアメリカの国務長官ケロッグの提唱により、国家間の戦争を法的に非合法化する構想が具体化された。
1928年(昭和3年)8月27日、パリにおいて日・米・英・仏・独・伊など15カ国の代表が集まり、「戦争抛棄に関する条約(不戦条約)」が調印された。日本の全権代表は、枢密顧問官の内田康哉(うちだこうさい)であった。その後、ソ連を含む多数の国家が参加し、最終的には60カ国以上が署名する歴史的な国際条約となった。
条約の内容と構造的な限界
不戦条約は前文と全3条の極めて簡潔な構成からなる。第1条で「国際紛争解決の為の戦争」を非とし、「国家の政策の手段としての戦争」を放棄することを宣言した。さらに第2条では、一切の紛争の処理や解決を「平和的手段」によってのみ求めることが規定された。それまで国家の正当な権利とされてきた「戦争」を初めて違法化した点で、国際法における画期的な転換点であった。
しかし、本条約には重大な限界も存在した。交渉過程において、各国の「自衛のための戦争」は放棄の対象外(自衛権の留保)とされたのである。さらに、条約違反に対する具体的な制裁規定も設けられていなかったため、後に各国が自らの軍事行動を「自衛権の発動」と強弁する余地を残すこととなり、侵略を抑止する実効性には乏しいものであった。
日本における批准問題と憲法論争
日本において不戦条約は、国内政治に深刻な波紋を投げかけた。問題となったのは、条約第1条の「其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言シ」という文言である。大日本帝国憲法第13条において、条約締結権を含む主権は天皇に帰属する(天皇大権)と規定されていたため、枢密院や右翼勢力、さらに立憲民政党などの野党までもが「国体(天皇主権)に反する」として当時の田中義一内閣を激しく攻撃したのである。
この憲法論争により、条約の批准手続きは長期化を余儀なくされた。窮地に陥った田中内閣は最終的に、1929年(昭和4年)に「人民ノ名ニ於テ」という字句は「帝国憲法ノ条規ニ由来スル天皇ノ大権ニハ何等影響ヲ及ボスモノニ非ズ」とする宣言文(解釈に関する留保条件)を付加することで枢密院の妥協を引き出し、ようやく批准にこぎつけた。この一連の騒動は、立憲主義的な国際協調外交に対し、国内の保守層や国家主義的思潮が強い圧力をかけ始めたことを示す象徴的な出来事であった。
満州事変と極東国際軍事裁判への影響
不戦条約の脆弱性は、1931年(昭和6年)に勃発した満州事変において露呈することとなる。関東軍の独断による軍事行動に対し、国際社会は不戦条約違反であるとして日本を非難したが、日本政府はこれを「自衛権の発動であり、条約には違反しない」と主張して正当化を図った。結果的に日本は国際的な非難を浴び、国際連盟脱退という孤立への道を進むこととなる。
その後、第二次世界大戦を経て、敗戦国となった日本を裁く極東国際軍事裁判(東京裁判)において、不戦条約は再び歴史の表舞台に登場した。連合国側は、日本が不戦条約に違反して侵略戦争を遂行したとして、A級戦犯を裁く「平和に対する罪」の重要な法的前提としたのである。また、不戦条約で掲げられた「戦争の放棄」という理念は、戦後に制定された日本国憲法第9条へと精神的・法理的に継承されることとなった。