ブリアン

高校日本史的重要度
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【参考リンク】

ブリアン (ぶりあん)

1862年〜1932年

【概説】
第一次世界大戦後の国際協調期を代表するフランスの政治家・外務大臣。アメリカ国務長官ケロッグとともに、国際紛争を解決する手段としての戦争放棄を誓った「不戦条約(パリ不戦条約)」を提唱した人物である。

協調外交の推進と不戦条約の結実

ブリアンは1920年代のヨーロッパにおいて、一貫して多国間協調による安全保障を模索し続けた。1925年にはドイツとの国境安定を目指したロカルノ条約の締結を主導し、翌1926年にはノーベル平和賞を受賞している。彼が1927年にアメリカの国務長官ケロッグに対し、両国間での戦争放棄を呼びかけたことが契機となり、1928年(昭和3年)に日本を含む15カ国が調印する不戦条約(ケロッグ=ブリアン条約)へと発展した。これは、近代国際法において初めて戦争そのものを原則として違法化した画期的な試みであった。

日本における「人民の名において」論争

ブリアンらが推進した不戦条約は、昭和初期の日本政治において激しい憲法論争を巻き起こすこととなった。当時の田中義一内閣が本条約に調印した際、条約第1条にある「其の各自の人民の名に於て(人民の名において)」という文言が問題視された。野党の立憲民政党や枢密院、右翼勢力は、この文言が大日本帝国憲法における天皇の統治権(大権)を侵すものであるとして政府を激しく攻撃した。この論争は政党間の政争や天皇主権説の絶対化を促す契機となり、最終的に日本政府は「この宣言は我が憲法上の規定の下においてのみ適用される」という留保条件を付して批准せざるを得なかった。ブリアンの掲げた平和主義の理念は、図らずも日本におけるナショナリズムの台頭と憲法解釈の硬直化を浮き彫りにしたのである。

最終更新:
2026年6月16日 @ 07:44

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