興福寺仏頭(旧山田寺仏頭) (こうふくじぶっとう(きゅうやまだでらぶっとう)
【概説】
飛鳥時代後期(白鳳文化期)に鋳造された、山田寺講堂本尊の薬師如来像の頭部。鎌倉時代に興福寺へ移された後、室町時代の火災で頭部のみが焼け残り、昭和期に劇的な再発見を遂げた白鳳彫刻の代表作。若々しく凛とした表情と高い鋳造技術は、当時の美術水準の高さを現代に伝えている。
蘇我倉山田石川麻呂の哀史と仏像の誕生
興福寺仏頭は、もともとは飛鳥の山田寺(奈良県桜井市)の講堂本尊である薬師三尊像の主尊であった。山田寺は、大化の改新(645年)において中大兄皇子や中臣鎌足らに協力し、初代右大臣となった蘇我倉山田石川麻呂が発願した寺院である。しかし、石川麻呂は649年に謀反の冤罪をかけられ、自ら建立中であった山田寺で自害するという悲劇的な最期を遂げた。
彼の死後も寺院の建立は一族によって継続され、天武天皇の治世である685(天武天皇14)年に、ようやく本尊である金銅製の薬師三尊像が完成・開眼した。この仏像は、天武・持統朝を中心とする白鳳文化を代表する彫刻であり、初々しく若々しい生命感にあふれた、ふっくらとした頬や切れ長の目が特徴である。中国の南北朝・隋・初唐の彫刻様式の影響を受けつつ、日本の古代国家形成期における独自の瑞々しい美意識が表現されている。
興福寺僧兵による「強奪」と流転の歴史
この仏像が山田寺から興福寺へと移る背景には、中世の動乱期における激しい歴史のドラマがあった。1180(治承4)年、平氏政権による南都焼討(平重衡の火の災)により、興福寺は東金堂をはじめとする多くの伽藍と仏像を焼失した。興福寺の再興にあたり、1187(文治3)年、興福寺の僧兵たちは当時すでに衰退しつつあった山田寺に押し入り、その本尊であった薬師三尊像を強引に略奪(「搦め取り」と記録される)し、興福寺東金堂の本尊として据えたのである。
しかし、興福寺に移された仏像をさらなる悲劇が襲う。1411(応永18)年、東金堂は落雷による火災に見舞われ、薬師三尊像は激しい炎によって融解し、崩壊してしまった。その際、奇跡的に焼け残った頭部(仏頭)だけが救い出され、のちに室町時代に東金堂が再建された際、新たに造られた新本尊(薬師如来坐像)の巨大な台座(須弥壇)の内部に、いわば「御神体」のような形で安置され、長い歴史の闇の中に隠されることとなった。
昭和の劇的な発見と美術史的意義
その後、仏頭の存在は完全に忘れ去られていたが、1937(昭和12)年、東金堂の解体修理の際に台座内部から約500年ぶりに発見され、日本中を驚かせた。この劇的な再発見により、文献(『愚管抄』など)に記されていた山田寺本尊の強奪事件の史実が裏付けられるとともに、失われたとされていた白鳳彫刻の本尊の実物が、現代に蘇ることとなった。
この仏頭は、鍍金(金メッキ)の大部分が火災によって失われ、剥き出しになった青銅の質感(黒漆の痕跡を含む)が、かえって彫刻としての力強さとシャープな造形美を際立たせている。丸みをおびた輪郭、引き締まった口元、切れ長の涼しげな目元に見られる「永遠の青春」とも評される表情は、日本の仏教美術史上、白鳳彫刻の最高峰として現在も極めて高く評価されており、現在は国宝に指定されている。