戦争放棄
【概説】
日本国憲法第9条第1項において定められた、国権の発動たる戦争や、武力による威嚇または武力の行使を永久に放棄するという規定。第二次世界大戦の惨禍に対する深い反省から生まれ、基本的人権の尊重、国民主権と並ぶ日本国憲法の三大原則の一つ「平和主義」を象徴する中核的理念である。
第一項「戦争放棄」と第二項「戦力不保持」の構造
日本国憲法第9条は、第一項で「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と宣言している。これは1928年のパリ不戦条約(ケロッグ・ブリアン協定)における「国家の政策の手段としての戦争放棄」の理念を継承し、さらに徹底させたものである。
そして第二項において、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と規定し、戦力不保持と交戦権の否認を定めている。これにより、侵略戦争のみならず自衛戦争も放棄したと解されるような、近代国民国家としては類を見ない徹底した絶対的平和主義が法的に確立された。
制定の歴史的背景と「マッカーサー・ノート」
1945年のポツダム宣言受諾による敗戦後、日本は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領下におかれ、軍隊の武装解除と徹底した非軍事化・民主化が進められた。1946年2月、GHQ総司令官ダグラス・マッカーサーは、民政局(GS)に対して新憲法草案の作成を指示した際、「マッカーサー・ノート」と呼ばれる三原則を示した。その中には天皇の地位の保障や封建制度の廃止とともに、明確な戦争の放棄が含まれていた。
この戦争放棄の絶対的理念の発案者がマッカーサー自身であったのか、当時の内閣総理大臣である幣原喜重郎であったのかについては、現在も歴史学上の議論が続いている。いずれにせよ、二度と日本が軍事的な脅威とならないことを求める連合国側の意志と、未曾有の戦争の惨禍を経験した日本国民の平和への強い希求が合致した結果として制定されたことは間違いない。
帝国議会における「芦田修正」と解釈の余地
GHQ草案を基にした政府案は、第90回帝国議会での審議に付された。この衆議院における憲法改正草案委員会の委員長を務めたのが芦田均である。芦田は第九条第二項の冒頭に「前項の目的を達するため」という文言を挿入する修正を行った(芦田修正)。
第一項が「国際紛争を解決する手段として」の戦争を放棄していることから、この芦田修正によって「侵略戦争の目的を達するための戦力は保持しないが、自衛のための戦力保持までは禁じられていないのではないか」という法的解釈の余地が生まれた。極東委員会(占領政策の最高決定機関)はこの修正によって日本が再軍備化することを警戒し、急遽、文民統制(シビリアン・コントロール)の規定を憲法第66条に盛り込むよう要求することとなった。
冷戦の激化と安全保障政策の変容
憲法制定当初、吉田茂内閣をはじめとする政府は「自衛権は有するが、自衛戦争も放棄し、いかなる戦力も保持しない」という厳格な解釈をとっていた。しかし、1950年に朝鮮戦争が勃発すると、東アジアにおける冷戦構造が激化する。マッカーサーの指令により、日本国内の治安維持の空白を埋める名目で警察予備隊が創設され、これが保安隊を経て1954年の自衛隊創設へとつながった。
これに伴い、政府は「独立国家として固有の自衛権を否定するものではなく、自衛のための必要最小限度の実力は、憲法第九条の禁ずる『戦力』には当たらない」という新たな政府見解を示すようになった。この事実上の解釈改憲により、「戦争放棄」の憲法理念と、日米安全保障条約に基づく現実の安全保障体制との間に生じた論理的矛盾は、現在に至るまで激しい憲法論争の的となっている。
戦後日本における歴史的意義
「戦争放棄」を掲げた第九条は、戦後日本の歩みを決定づける最大の要因となった。冷戦下においてアメリカの軍事力に依存しつつも、日本自身は軽武装に留め、国家資源の大部分を経済復興と産業発展に集中させるという吉田ドクトリンの根幹を支えたのである。
さらに、武器輸出三原則や非核三原則といった、戦後日本の外交・平和政策の精神的および法的基盤としても機能した。現代においては、東アジアの安全保障環境の激変に伴う集団的自衛権の行使容認(2014年の閣議決定および2015年の平和安全法制)や憲法改正論議が活発化しているが、「戦争放棄」という条項が戦後日本の国際社会への復帰を助け、国民生活に定着した平和主義を育んだ歴史的意義は極めて大きいと言える。