立憲民政党
【概説】
1927年(昭和2)に憲政会と政友本党が合同して結成された、昭和戦前における二大政党の一つ。ライバルである立憲政友会と交代で政権を担当する「憲政の常道」の時代を担い、浜口雄幸内閣や第2次若槻礼次郎内閣を組織した。対外的には英米との協調外交、内政では金解禁に伴う緊縮財政を基本方針として掲げたが、世界恐慌や軍部の台頭の荒波に抗しきれず、大政翼賛会への合流により消滅した。
結党の背景と「憲政の常道」
1927年(昭和2)、昭和金融恐慌の対応をめぐって枢密院と対立した若槻礼次郎内閣(憲政会)が総辞職し、代わって立憲政友会の田中義一内閣が成立した。これに対抗するため、同年6月に憲政会と政友本党が合同して結成されたのが立憲民政党である。初代総裁には浜口雄幸が就任した。
民政党の結党により、衆議院は政友会と民政党という二つの巨大政党によって議席の大部分が占められることとなった。以後、1932年(昭和7)の五・一五事件に至るまで、衆議院で多数を占めた政党の党首が内閣を組織し、行き詰まれば野党の党首に政権が譲られるという、いわゆる「憲政の常道(二大政党制)」が本格的に定着した。
緊縮財政と協調外交の推進
1929年(昭和4)、張作霖爆殺事件の事後処理をめぐって田中義一内閣が退陣すると、民政党の浜口雄幸が組閣した。民政党内閣の政策的特徴は、積極財政と強硬外交を掲げた政友会とは対照的に、「緊縮財政」と「協調外交」を基本方針とした点にある。
内政においては、大蔵大臣に井上準之助を起用し、国際経済への復帰と物価引き下げを目的として1930年(昭和5)に金解禁(金輸出解禁)を断行した。しかし、折しも前年に発生していた世界恐慌の波及と重なり、日本経済は深刻な昭和恐慌に陥ることとなった。政府は徹底した緊縮財政と産業合理化政策で乗り切ろうとしたが、農村の窮乏や中小企業の倒産を招き、国民の不満を高める結果となった。
外交においては、外務大臣に幣原喜重郎を起用し、英米との協調と中国への内政不干渉を柱とする幣原外交を展開した。1930年にはロンドン海軍軍縮条約を締結し、海軍の補助艦の軍備縮小を実現させた。しかし、この軍縮条約の調印は、野党である政友会や海軍軍令部、右翼勢力から「政府が天皇の軍隊の兵力量を勝手に決めた」として、激しい統帥権干犯問題を引き起こすこととなった。
軍部の台頭と政党政治の終焉
ロンドン海軍軍縮条約への不満を背景に、1930年11月、浜口首相は東京駅で右翼青年に狙撃されて重傷を負い、翌年に退陣を余儀なくされた。後継として第2次若槻礼次郎内閣が成立したが、1931年(昭和6)9月に満州事変が勃発すると、政府の不拡大方針を無視して関東軍が軍事行動を拡大させたため、軍部を抑えきれなくなった若槻内閣は総辞職した。
その後、政権は再び政友会(犬養毅内閣)に移ったが、1932年(昭和7)の五・一五事件で犬養首相が暗殺されたことにより、約8年間続いた政党内閣時代は終焉を迎えた。以後の日本は、軍人や官僚を中心とする挙国一致内閣の時代へと突入していく。
新体制運動と解党
政党内閣期が終わった後も、民政党は帝国議会において政友会とともに依然として多数の議席を維持していた。1940年(昭和15)2月には、民政党所属の斎藤隆夫が日中戦争の処理をめぐって軍部を鋭く批判する演説(反軍演説)を行うなど、政党政治の矜持を示す場面もあった。
しかし、ヨーロッパにおける第二次世界大戦の勃発や日中戦争の長期化を背景に、国内で強力な指導体制を目指す新体制運動が近衛文麿を中心に巻き起こると、既成政党はこれに抗う力を失っていた。1940年夏、他の全政党に続く形で立憲民政党も自発的に解党し、同年10月に結成された大政翼賛会へと合流した。これにより、日本の政党政治は完全に息の根を止められることとなった。