天皇主権

「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定められたように、国家の最高権力が天皇にあるとする憲法の基本原則を何というか?
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天皇主権

1889年〜1947年

【概説】
大日本帝国憲法の基本原則であり、国家の最高権力(主権)が神聖不可侵の存在である天皇に帰属するとした政治的・法学的概念。プロイセン憲法の影響を強く受け、明治国家の絶対的な正統性の根拠として機能した。昭和期には軍部の暴走を正当化する論理として利用され、第二次世界大戦後の日本国憲法における国民主権の確立によって否定された。

大日本帝国憲法における確立と背景

1889(明治22)年に発布された大日本帝国憲法(明治憲法)において、日本の統治体制の核心とされたのが天皇主権である。同憲法第1条は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定め、第3条では「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」として天皇の絶対不可侵性を明記した。自由民権運動の高まりを抑え、強力な中央集権国家を建設しようとした伊藤博文らは、君主権が極めて強いドイツのプロイセン憲法を模範とした。そこに日本古来の「万世一系の天皇」という歴史的・宗教的権威を結合させることで、国家の意思決定の最終的な権限を天皇に集中させる天皇主権という独自の立憲君主制を構築したのである。

天皇大権と統帥権の独立

天皇主権の下で、天皇は国家のすべての権力を総攬(統括)する存在とされた。天皇が議会の協賛(同意)なしに行使できる幅広い権限を天皇大権と呼ぶ。これには法律の裁可、議会の召集・解散、文武官の任免などのほか、軍隊に対する最高の指揮権である統帥権が含まれていた。憲法第11条で定められた「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」という規定は、軍隊の指揮権が内閣や議会の統制を受けず、天皇に直属することを意味した(統帥権の独立)。この制度は当初、軍隊を政治的対立から引き離す意図があったが、昭和期に入ると軍部がこの規定を盾にとって政府の干渉を排除し、満州事変以降の軍部の暴走とファシズム化を招く最大の要因となった。

憲法学説の対立:天皇機関説と神権天皇説

天皇主権という概念をいかに解釈するかをめぐり、法学者の間では激しい論争が展開された。大正デモクラシー期に主流となったのが、国家を一つの法人とみなし、天皇はその最高機関として憲法に従って主権を行使すると解釈する天皇機関説(美濃部達吉ら)である。これは議院内閣制や政党政治を理論的に裏付ける立憲主義的な解釈であった。これに対し、穂積八束や上杉慎吉らは天皇自身が主権者であり、その絶対的権力は憲法をも超越するという天皇主権説(神権天皇説)を主張した。1935(昭和10)年、軍部や右翼の圧力により天皇機関説が「国体に反する」として排撃される天皇機関説事件が起きると、政府は「国体明徴声明」を出して神権的な天皇主権説を公認し、立憲主義的な政治体制は事実上崩壊した。

敗戦と天皇主権の終焉

日本の国家体制の絶対的な中心として機能した天皇主権は、第二次世界大戦の敗北によって終焉を迎えた。1945(昭和20)年のポツダム宣言受諾に伴い、日本の主権は連合国軍最高司令官(SCAP)の制限下に置かれた。そして1946(昭和21)年の「天皇の人間宣言」を経て、1947年に施行された日本国憲法において、天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と規定され、国政に関する権能を一切持たないことが明記された。同時に「主権が国民に存する」とする国民主権が確立したことで、明治以来半世紀以上にわたって日本の国家構造を規定した天皇主権体制は、法制史上から完全に姿を消したのである。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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