懐良親王 (かねよししんのう)
【概説】
南北朝時代に活躍した後醍醐天皇の皇子。南朝の征西大将軍として九州に下向し、肥後の有力豪族である菊池武光らを率いて独自の政治権力(征西府)を確立した人物。一時的に九州の大半を平定し、明の洪武帝から「日本国王」に冊封されるなど、東アジアの国際社会においても存在感を示した。
征西大将軍としての九州下向と足場固め
建武の新政が崩壊した後、南朝(吉野朝廷)の後醍醐天皇は、勢力の挽回と各地の武士の組織化を図るため、自らの皇子たちを各地に派遣する戦略をとった。懐良親王はその一環として征西大将軍に任じられ、延元3年/建武5年(1338年)頃に吉野を出発、伊予国(愛媛県)などを経て興国3年/康永元年(1342年)に薩摩国(鹿児島県)へ上陸した。
当時の九州は、一色範氏ら足利幕府(北朝)側の勢力と、島津氏、大友氏、少弐氏などの有力守護が複雑に絡み合い、極めて不安定な情勢であった。懐良親王は五条頼元らに支えられながら情勢を見極め、肥後国(熊本県)の武士である菊池武光との結びつきを強化することに成功した。武光の軍事力を背景に得たことで、親王の征西府は九州における南朝側の強固な拠点へと成長していくこととなった。
筑後川の戦いと大宰府「征西府」の全盛期
観応元年/正平5年(1350年)に室町幕府内で激化した「観応の擾乱」は、九州地方の勢力図をさらに混迷させた。足利尊氏と対立した足利直義の養子・足利直冬が九州に下向したことで、北朝方は二分された。懐良親王はこの隙を見逃さず、巧みに勢力を拡大していった。
そして正平14年/延文4年(1359年)、九州南北朝期の最大規模の戦闘とされる筑後川の戦い(大原合戦)が勃発する。懐良親王・菊池武光率いる南朝軍は、北朝方の少弐頼尚の軍勢を激しい死闘の末に撃破した。この大勝により、正平16年/康安元年(1361年)に南朝軍は九州の政治的要衝である大宰府を占領。以後約10年間にわたり、九州の大半を実質的に支配する「征西府」の全盛期を築き上げた。
明朝からの「日本国王」冊封と征西府の終焉
懐良親王の権力は国内にとどまらず、東アジアの国際関係にも影響を与えた。当時、中国大陸を支配していた明の太祖・洪武帝は、沿岸地域を脅かす倭寇(前期倭寇)の取り締まりを求め、日本に国使を送った。その際、明側は九州で独自の版図を築いていた懐良親王を日本の代表者と認識し、明の元号を用いることや倭寇の取り締まりを条件に、親王を「日本国王良懐」として冊封した。これは、後の足利義満による日明貿易(勘合貿易)に先駆ける外交交渉の先例となった。
しかし、こうした全盛期も長くは続かなかった。危機感を募らせた室町幕府が、応安4年/建徳2年(1371年)に名将・今川貞世(了俊)を九州探題として派遣すると、南朝方は一転して窮地に陥った。今川了俊の優れた軍事・政治戦略により、文中元年/応安5年(1372年)に大宰府を奪還され、さらに頼みの綱であった菊池武光も病没した。これにより征西府は崩壊し、懐良親王は筑後国の矢部などに退いて抵抗を続けたものの、弘和3年/永徳3年(1383年)に失意のうちに没した。親王の死と征西府の没落は、九州における南北朝合一への流れを決定づけることとなった。